小関三英 (KOSEKI Sanei)
小関三英(こせき さんえい、天明7年6月11日 (旧暦)(1787年7月25日) - 天保10年5月17日 (旧暦)(1839年6月27日))は、江戸時代後期の医者・蘭学者。
名は好義、通称良蔵。
号は鶴洲、あるいは篤斎(とくさい)。
出羽国(山形県)庄内地方・鶴岡市の生まれ。
人物
長崎でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに師事したとされてきたが、最近では長崎遊学、シーボルト門下とする典拠はないとされる。
江戸で蘭医吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学を学ぶ。
コンスブルフの内科書を和訳して「泰西内科集成」を上梓。
天保3年(1832年)、和泉国岸和田医となり、のち幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用、すなわち翻訳係となる。
このころ渡辺崋山・高野長英と親交をもち、尚歯会に参加、歴史や地理を講じる。
蛮社の獄の際、崋山・長英の入牢を聞き、自害する。
崋山に「耶蘇伝」を口訳したことなどから連坐を恐れたものとされるが、三英には特に処罰される必然性はなく、自害は早計だったのではないか、とする意見もある。
西洋史にも興味を持ち、日本にナポレオン・ボナパルトを紹介する。
著書に「西医原病略」「輿地誌」などがある。