尾形俊太郎 (OGATA Shuntaro)
尾形 俊太郎(おがたしゅんたろう、生没年不詳)は、新選組隊士。
沖田総司や永倉新八などと同様の大幹部。
諸士取調兼監察及び文学師範。
五番組頭、副長助勤、目付も務めている。
肥後国熊本藩出身。
緒方、小形とも。
新選組
入隊は文久三年(1863年)五月二十五日以降。
同年六月の編成では、副長助勤を務めている。
八月十八日の政変に参加したものと考えられるが、元治元年(1864年六月の池田屋事変には不参加である。
屯所警備に重んじていたか、もしくは当時隊内に病人が多かったらしいことから、尾形もその一人とも考えられる。
同年十二月に長州征討を考えた行軍録では、五番組組頭に就任している。
近藤勇の信頼が厚かったようで、初期より重用され、元治元年に江戸への隊士募集行きや、慶応元年(1865年)と慶応二年(1866年)の二度に渡る長州出張に例外なく随行している。
慶応元年四月の編成では、諸士取調役兼監察方及び文学師範に就任し、文官として高く評価されていたようである。
慶応三年(1867年)六月の幕臣取立では、副長助勤として見廻組格となっている。
慶応四年(1868年)一月に勃発した鳥羽・伏見の戦いでは目付を務め、大阪に敗走後、江戸に帰還。
その後も在隊し、甲州勝沼の戦いを通して会津にへ向かい、同年八月二十一日の母成峠の戦いで敗走。
二十二日に斎藤一こと山口次郎ら38名と共に会津若松城下外堀外の斉藤屋に宿泊した記録を最後に消息を絶った。
会津まで新選組に同行した副長助勤は、この尾形と斎藤のみである。
消息
尾形の消息は判然としていない。
中島登は「行方不明」とし、横倉甚五郎は「会城(会津若松城)に残る」としている。
いずれにしても新選組本陣から離れており、その後は以下のような諸説があるが、どれも確証がない。
会津に残り、そこで生涯を終えた。
仙台藩士と共に抗戦し、仙台で降伏した。
故郷の熊本に帰り、地元の警察で剣術を教えていた。
東京で斎藤一(当時の名は藤田五郎)と共に古閑膽次という名で密偵をした後、消防署長となり、明治三十七年(1904年)に殉職した。
尚、会津三代の正福寺に松本喜次郎の墓と共に「尾形」という姓の新選組隊士の墓があったという伝承があるが定かではない。