山口宗永 (YAMAGUCHI Munenaga)
山口 宗永(やまぐち むねなが、生年不詳 - 慶長5年8月3日 (旧暦)(1600年9月10日))は、戦国時代 (日本)後期から江戸時代初期の大名で加賀国大聖寺六万石余。
近江国淀城主だったと言われる 玄蕃允、玄蕃頭。
別名は山口 正弘。
慶長2年(1597年)、小早川家を継いだ小早川秀秋の補佐役として豊臣政権から送り込まれた。
小早川領に太閤検地を行ったり、慶長の役では朝鮮に渡って秀秋を補佐した。
蔚山城の戦いでは小早川勢を率いて加藤清正らの籠城する蔚山倭城を救援した。
秀秋とは折り合い悪く、秀秋が慶長3年(1598年)に筑前名島から越前北庄へ転封された時に加賀大聖寺の独立大名に取り立てられた。
子に長男右京亮山口修弘、次男左馬助山口弘定、池田重利室らがあった。
関ヶ原の役では慶長5年7月26日に加賀金沢の前田利長は約20000の大軍を率いて金沢城を出撃し、西軍の丹羽長重の拠る小松城を攻撃するかに見えた。
急遽、これを避けて8月1日に加賀松山城に入城した。
山口宗永はその危急を聞いて、大聖寺城の防備を堅め、北ノ庄城の青木一矩や小松城の丹羽長重に救援依頼の使者を派したが間に合わなかった。
翌2日、利長は九里九郎兵衛・村井久左衛門を使者として大聖寺城に籠もる山口宗永に降伏を勧告した。
宗永は利長の攻撃に憤激して勧告を拒否した。
前田勢は数を嵩にきて城攻めを行った。
守る山口軍も宗永の子右京亮修弘が城近くに伏兵を潜ませて迎撃の指揮をとったが、前田勢の先鋒山崎長徳に発見されてしまった。
ここに戦いの幕が切って落とされた。
野戦では敗戦した山口勢は敗兵を収容し、ただちに篭城戦の構えをとった。
前田勢も先鋒の山崎隊に加えて長連龍隊などの後続の軍勢も参戦して城の外周で激戦が展開された。
山口修弘は果敢に出撃してしたたかに前田勢に被害を与えたが前田勢の鉄砲隊の一斉射撃を受けて、やむなく城内に退却する。
大軍の前田勢はひた押しに押し進むが、山口宗永や山口修弘らが率いる山口勢もひるまず果敢に反撃した。
しかし、20000の大軍の前にわずか500余の兵しか要しない山口勢では敵うはずもなく、ついに宗永は塀の上から降伏の意思を伝えた。
しかし、多くの兵を失った前田勢は復讐心に燃えてこれを許さず、城内に突入した。
8月3日の夕方に、ついに大聖寺城は陥落した。
山口宗永と山口修弘の墓は石川県加賀市大聖寺神明町にある全昌寺にある。
宗永の遺児、山口弘定は父の遺志を継いで、大坂城に入城することになる。
なお、子孫は松江藩に仕え、明治維新後は日銀の理事となる山口宗義がいる。
そしてその息子であり太平洋戦争においてミッドウェー海戦で第二航空戦隊を指揮し、戦死した海軍中将山口多聞。
宗義の玄孫にはレーシングドライバーの山口礼がいる。