山名豊之 (YAMANA Toyoyuki)
山名 豊之(やまな とよゆき)は室町時代の人物で伯耆国守護を務めた。
経歴
豊之が家督を継いだ時期は不明だが享徳2年(1453年)7月に「屋形六郎」と見えることからこの頃には家督を継いでいたと思われる。
しかし、実際は父・教之の指導下に置かれており、守護として活躍したと言うより足利義政の御供衆として人生の大半を京都において過ごした。
ただ、段階的に守護権力の移譲が行われていたようで寛正2年(1461年)8月には因幡国守護で自身の弟である、山名豊氏の但馬聚慶軒領因幡国味和郷遵行について室町幕府が意見を述べさせている。
なお、『応仁記』によれば応仁元年(1467年)1月には、山名宗全によって父・教之、子の政之と共に京都に招集されている。
文明元年(1469年)頃に伯耆へ下向、応仁の乱などによる国内の混乱の収拾を行うも失敗し、文明3年9月に山名豊之の殺害事件において殺害された。
「故総州太守源公持房景龍院殿高門常誉禅門行状」という史料には「司農(豊之)為逆臣所弑」と記されている。
謀反により殺害されたことが判明している。
若干古い関係書籍では文明5年の父・教之の死後、守護職を継いだと記されているが、現在では史料等の研究により豊之の死が教之に先行することが明らかになっている。