山田古嗣 (YAMATA no Furutsugu)

山田 古嗣(やまた の ふるつぐ、延暦17年(798年) - 仁寿3年(853年)12月21日)は、平安時代初期の実務官僚・貴族。
能吏として知られ、内記・外記を勤めた後、諸国国司を歴任した。
日本後紀の編纂にも携わった。

生涯

古嗣の生涯は、日本文徳天皇実録の卒伝に記されている。
以下、主に卒伝に従う。

越後介従五位の山田益人(やまだのますひと)の長子として平安京の左京に生まれた。
幼い頃に母を亡くし、おばを母として敬っていた。
あるとき読書をしていると「至於樹欲靜而風不止。子欲養而親不待。」(木は静かにしようとしたが風はやまなかった。子は育ててほしいと望んだが親はいなかった。)の句に出会い、実母に孝行できなかった後悔から落涙した。
これは古嗣の非常に孝行な人物像を物語るエピソードとして知られている。

弘仁12年(821年)に父が死去した際、礼式の規定以上に喪に服し、哀しみを表した。
天長3年(826年)陸奥按察使記事に任命され、同5年(828年)に少内記へ異動した。
翌同6年(829年)少外記となり、同12年(833年)に宿祢の姓を賜与されると、承和 (日本)元年(834年)には大外記へ昇進した。
勤務成績は優秀で、その広い見聞と有能さから公卿・大臣らの顧問として重用された。
この時期には日本後紀の編纂作業にも従事しているが、能吏でなければ史書編纂に携わることはあり得ず、このことも古嗣の有能ぶりを示している。

承和13年(846年)阿波介に補任された。
阿波国の阿波郡・美馬郡は、常に旱魃に悩まされていたが、古嗣は池と用水を築造する潅漑事業を成し遂げ、その仁政と能力の高さから広く名声を得た。
現存する浦池(徳島県吉野川市(旧土成町)内)と古池(徳島県三好市(旧池田町 (徳島県))内)は、古嗣が築造したとの伝承が残っている。

仁寿2年(852年)に左京亮となり、翌3年(853年)7月に相模権介に任じられたが、病を得て官を辞し、同年12月、56歳で没した。
人物は清廉謹厳で寡黙であった。
孝心篤く、官に勤めては仁政を布く能吏として知られた。

[English Translation]