川上操六 (KAWAKAMI Soroku)
川上 操六(かわかみ そうろく、嘉永元年11月11日 (旧暦)(1848年12月6日) - 1899年(明治32年)5月11日)は、日本の大日本帝国陸軍軍人、華族。
官位は参謀総長陸軍大将位階勲等金鵄勲章子爵。
幼名宗之丞。
長男の川上素一は陸軍少佐、娘は小原伝陸軍中将に嫁ぐ。
桂太郎、児玉源太郎とともに、「明治陸軍の三羽烏」とされる。
経歴
鹿児島藩士川上伝左衛門親徳の三男として生まれ、鳥羽伏見の戦い・戊辰戦争に薩摩藩10番隊小頭として従軍する。
戦後上京し1871年(明治4年)4月から陸軍に出仕、同年7月から陸軍中尉・御親兵第2大隊付に任ぜられる。
近衛兵歩兵第3大隊長、近衛歩兵第2連隊大隊長、参謀本部 (日本)出仕を経験し階級は陸軍少佐に昇る。
1877年(明治10年)に始まった西南戦争では歩兵第13連隊長心得として従軍し功を立てる。
1878年(明治11年)12月陸軍中佐・歩兵第13連隊長。
1880年(明治13年)5月歩兵第8連隊長、1882年(明治15年)2月には大佐に進み近衛歩兵第1連隊長に就任する。
1884年(明治17年)には大山巌陸軍卿に随行し欧米諸国の兵制を視察する。
帰国後の1885年(明治18年)陸軍少将・参謀本部 (日本)次長、1886年(明治19年)近衛歩兵第2旅団長の後1887年(明治20年)には再びヨーロッパに渡りドイツで兵学を学ぶ。
1888年(明治21年)帰国し1889年(明治22年)3月参謀次長、1890年(明治23年)陸軍中将に進級。
1893年(明治26年)から清国に出張の後1893年(明治26年)10月参謀本部次長に就任し、設置された大本営で陸軍上席参謀兼兵站総監につき日清戦争開戦に大きく関わる。
1895年(明治28年)3月には征清総督府参謀長に任命され、かねてから川上が大いに推し進めた軍の近代化が功を奏し戦功を挙げる。
その功により1895年(明治28年)8月勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章を賜り、子爵を授けられる。
台湾・仏印・シベリア出張を経て1898年(明治31年)1月参謀総長に就任、同年9月陸軍大将に任命されるが、翌年5月に薨去する。
薨去に伴い従二位に叙され勲一等旭日桐花大綬章を賜る。
薩摩藩出身者として藩閥の中心人物と成りうる人物であったが、本人には派閥意識がまるでなく、出身藩にこだわらず幅広く人材を登用し、教育方面でも、成城学校(新宿区原町)校長を務めるなど、優秀な軍人育成に貢献した。
墓所は東京都港区・青山霊園。
著作等
『印度支那視察大要』川上操六著、(発行者不明)、1897年
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