平盛国 (TAIRA no Morikuni)
平 盛国(たいら の もりくに、永久 (元号)元年(1113年) - 文治2年7月25日 (旧暦)(1186年8月11日))は、父は平盛遠(または異説として平季衡)。
子に一ノ谷の戦いで戦死した平盛俊がいる。
平氏一族ではあるが、傍系の武官であるため官位・家格は低めである。
平清盛の側近として仕え、保元元年(1156年)の保元の乱・平治元年(1159年)の平治の乱では、一門衆の要として多くの功績を挙げた。
その後、左衛門尉となっている。
後に主馬正や検非違使を兼ねて五位の位を授けられるが、承安 (日本)2年(1172年)には出家する。
その後も平氏宗家の家令的な役割を果たした。
治承5年(1181年)、清盛は盛国の屋敷で息を引きとっている。
清盛の死後、平家が衰退して都落ちを余儀なくされると、盛国もこれに従った。
清盛死後の盛国の活躍は老齢のためもあってか、あまり詳しくは見られない。
ただし寿永4年(1185年)の壇ノ浦の戦いで、生きたまま捕虜にされて平宗盛とともに鎌倉に送られた。
このとき源頼朝は老齢の盛国まで殺すことを忍びなかったのか、一命を助けて岡崎義実のもとにその身柄を預けている。
その後盛国は、日夜一言も発する事なく法華経に向かい、飲食を一切絶って文治2年(1186年)7月25日、餓死によって自害した。
享年74。
頼朝はこの盛国の態度を称賛したという。