平間重助 (HIRAMA Jusuke)
平間 重助(ひらま じゅうすけ 文政7年(1824年) - 明治7年(1874年)8月22日 (旧暦))。
水戸藩領芹沢村出身。
新選組副長助勤、勘定方。
父は平間忠衛門。
生涯
平間家は水戸藩の郷士芹沢氏が芹沢城主だった時代からの家来の家柄で、芹沢家の用人(家老)を務めていた。
天保15年(1844年)に芹沢家当主芹沢外記貞幹(芹沢鴨の父)が一族30人を率いて水戸藩の軍事調練に参加した中に「平間重助」の名がみえる。
平間は貞幹の三男芹沢鴨(神官下村家に婿養子、神道無念流免許皆伝)から剣術を学び神道無念流の目録を得た。
その後、嗣司は天狗党に参加、罪を犯して入牢していたが、大赦で釈放され芹沢鴨と名を改め江戸に上り、文久3年(1863年)2月、、清河八郎の浪士組に応募し上洛することになった。
用人の平間も妻子を芹沢家に預けてこれに同行した。
浪士組が入洛した直後に清河は尊王攘夷の真意を明らかにして江戸帰還を宣言。
芹沢と近藤勇はこれに反対して芹沢と水戸系浪士5人と近藤の江戸・試衛館門人8人の合計13人が浪士組を脱退して京都残留を決める。
浪士たちは京都守護職会津藩主松平容保に嘆願して「会津藩御預り」となり壬生浪士組を結成する。
芹沢が筆頭局長、近藤と新見錦(水戸脱藩)が局長、平間は幹部の副長助勤となった。
壬生浪士組は水戸派と試衛館派に大別され、平間は当然水戸派に属した。
芹沢家用人を務めていた平間は算用に通じていたらしく、壬生浪士組の勘定方を務めた。
会津藩からの資金供与は乏しく、壬生浪士組は芹沢が中心となって裕福な商家から押し借り(天狗党の常套手段)で資金を調達することになり、その点からも芹沢に近い平間が財務を握る必要があったのだろう。
4月、平間は芹沢、近藤らとともに大阪市へ下り、商家から押し借りをして、その金で揃いの浅黄色のダンダラ模様の隊服をあつらえている。
芹沢は大坂で力士と乱闘事件を引き起こし、京都で乱暴狼藉を繰り返したことが朝廷の怒りを買い会津藩に召捕りの命が下された。
会津藩は近藤、土方歳三、山南敬助ら試衛館派に芹沢の処置を命じた。
水戸藩の国学、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を危険視したという説もある。
9月16日(18日説アリ)、新選組(8月に改称)は嶋原の角屋で芸妓総揚の宴会を開き、芹沢、平山五郎、平間そして土方が早めに角屋を出て屯所の八木家へ戻った。
芹沢と平山は泥酔していたが、平間は平素からあまり酒を飲まずさほど酔っていなかった。
八木家には芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っていた。
芹沢と平山は奥の十畳間で女と同衾して寝て、平間は玄関口の左手の部屋で糸里と寝た。
彼らが寝静まった深夜、突然数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に踏み込み、芹沢と平山を殺害、居合わせたお梅も惨殺された。
暗殺を終えると刺客たちは風のように立ち去った。
騒ぎを聞きつけて平間が飛び起き、大声を上げながら家じゅうを駆け回っているのを隣室にいた八木家の親子が目撃している。
刺客は試衛館派の土方歳三、山南敬助、沖田総司、原田左之助という説が有力である。
近藤と土方が素知らぬ風で八木家に事情を聴きにやって来たときには平間の姿はなかった。
平間の荷物がなくなっており、刺客の正体を察して逐電してしまった。
吉栄と糸里もどこかへ消えていた。
平間は郷里に帰って、芹沢家で顛末を伝えると、その後いったん消息不明となるが、明治維新後は地元の芹澤村に戻り、明治7年(1874年) に51歳で死去した。
「新選組剣豪秘話」(流泉小史著)に各地を流浪した末に岩手県で養蚕教師となり、明治23年(1890年)まで存命していたとう話が、真実のように新選組研究の本に記載されるが、
出身地である茨城県行方市芹沢にある法眼寺の過去帖や当時の戸籍によって明治7年旧暦8月22日に亡くなったことが判明している。
現在は菩提寺の法眼寺に芹沢鴨と連名の慰霊碑が建立されている。