当摩国見 (TAIMA no Kunimi (TAGIMA no Kunimi))
当摩 国見(たいま の くにみ/たぎまの-、生没年不明)は、日本の飛鳥時代の人物。
当麻 国見とも書き、カバネは公(きみ)、後に真人。
当麻皇子の孫で、父は当摩豊浜といわれるが不詳。
天武天皇元年(672年)の壬申の乱では大海人皇子(天武天皇)方に付き、天武・持統・文武の三代の天皇に仕えた。
また、当麻寺(奈良県葛城市)の開山に携わったと伝えられる。
壬申の乱時の国見の行動は『日本書紀』に見えないが、『続日本紀』の大宝元年(701年)7月21日条には、かつて功臣として100戸の封戸を与えられたことが記されており、天武方で何らかの活躍をしたことが分かる。
天武天皇13年(684年)10月に八色の姓が制定され、この際に当麻公姓を改め当麻真人姓を賜った。
当麻氏は用明天皇皇子の麻呂子皇子を祖とする皇別氏族である。
朱鳥元年(686年)9月27日、天武天皇の葬儀に際して、直大参の位にあった当摩国見は左右兵衛の事を誄した。
これにより、天武朝に軍事に関わっていたことがわかる。
持統天皇11年(697年)2月28日、直広壱の位であった国見は東宮大傅に任じられたが、下僚として路跡見が春宮大夫、巨勢粟持が春宮亮に任じられている。
東宮大傅は皇太子の教育職で、この場合、軽皇子(後の文武天皇)のための人事である。
軽皇子は翌年(697年)8月1日に禅譲されて即位したため、この時に国見の東宮大傅の任も解かれたと思われる。
文武天皇3年(699年)10月20日、衣縫王、当麻国見、土師根麻呂、田中法麻呂が、判官4人、主典2人、大工2人を引きつれ、斉明天皇陵墓を修造するために派遣された。
国見の位はこのとき直大壱であった。
その後の活動は見えない。
年譜
天武天皇元年(672年)、壬申の乱にて大海人皇子方に付いて有功。
天武天皇13年(684年)10月1日、当麻公を改め当麻真人の姓を与えられた。
朱鳥元年(686年)9月27日、天武天皇の葬儀で誄する。
時に直大参
持統天皇11年(697年)2月28日、東宮大傅になった。
時に直広壱
文武天皇3年(699年)10月20日、越智山陵を修造するために遣わされる。
時に直大壱