徳川慶勝 (TOKUGAWA Yoshikatsu)
徳川 慶勝(とくがわ よしかつ、文政7年3月15日 (旧暦)(1824年4月14日) - 明治16年(1883年)8月1日)は、江戸時代後期の大名(尾張藩(名古屋藩)14代、17代藩主)、明治時代初期の政治家。
尾張藩支藩であった美濃国高須藩主松平義建の次男。
母は水戸藩主徳川治紀の娘。
正室は二本松藩主丹羽長富の娘・矩姫(かねひめ)、側室は4人。
子は徳川義宜(三男)、徳川義恕(十一男)、道姫(三女、尾張支流松平義生正室)、登代姫(四女、徳川義礼正室)、良姫(徳川義礼継室)、富姫(毛利元昭正室のち戸田康泰継々室)。
幼名は秀之助、元服後は松平義恕(よしくみ)。
相続当初は徳川慶恕(よしくみ)。
号は月堂。
兄弟に15代藩主徳川茂徳(一橋徳川家11代茂栄(もちはる))、会津藩主松平容保(まつだいら・かたもり)、桑名藩主松平定敬(まつだいら・さだあき)などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。
なお、ここではすべて「慶勝」に統一する。
生涯
江戸四谷藩邸に生まれる。
尾張藩では10代藩主徳川斉朝(なりとも)から13代藩主徳川慶臧(よしつぐ)まで4代将軍家関係からの養子が続いた。
また、11代藩主徳川斉温(なりはる)がその在世中一度も尾張に入国せず江戸暮らしをするなど、尾張藩士の士気を地に落とすような出来事が続いた。
そのため、下級藩士を母体とする金鉄党などの養子反対派が、尾張支藩の高須藩出身である慶勝の藩主就任を渇望していた。
嘉永2年(1849年)に慶臧が死去すると、慶勝の14代藩主就任が実現する。
慶勝は、藩祖徳川義直の遺命である「王命によって催さるる事」を奉じ、尊皇攘夷を主張し、内政では倹約政策を主とした藩政改革を行う。
幕閣において老中阿部正弘の死後に大老となり幕政を指揮していた井伊直弼が、安政5年(1858年)にアメリカ合衆国と日米修好通商条約を調印したため、慶勝は水戸徳川家の徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城するなどして井伊に抗議した。
これが災いし、井伊が反対派に対する弾圧である安政の大獄をはじめると隠居謹慎を命じられ、弟の徳川茂徳が15代藩主となる。
このころから欧米より伝来した写真機に興味を持つ。
自らの手で薬品の調合をし、写真を撮影する。
撮影した写真の中には明治3年(1870年)に入り取り壊され名古屋城二の丸御殿、幕末の広島城下などの写真が1000点近く残されており、歴史的史料価値に値する写真が数多く残されている。
万延元年(1860年)に井伊が桜田門外の変で暗殺されると、文久2年(1862年)に「悉皆御宥許」の身となった。
その年に上洛し、将軍家茂の補佐を命じられる。
文久3年(1863年)、茂徳が隠居し、実子の元千代(徳川義宜 / よしのり)が16代藩主となったため、その後見として尾張藩の実権を握る。
その後、慶勝はたびたび上洛するが、その京都では文久3年(1863年)に会津藩と薩摩藩が結託したクーデターである八月十八日の政変が起こり、長州藩が京を追放された。
翌元治元年(1864年)に慶勝は雄藩の藩主経験者からなる参預会議への参加を命じられる(実際には辞退)。
その年、池田屋事件が発生し、これに憤慨した長州藩が京都の軍事的奪回を図るため禁門の変(蛤御門の変)を引き起こす。
しかしこれに失敗して長州藩は朝敵となり、幕府が長州征伐(第一次幕長戦争)を行うこととなる。
長州征討軍総督には初め紀州藩主徳川茂承が任じられたが、慶勝に変更され、慶勝は薩摩藩士西郷隆盛を大参謀として出征した。
この長州征伐では長州藩が恭順したため、慶勝は寛大な措置を取り京へ凱旋した。
しかし、その後長州藩は再び勤王派が主導権を握ったため、第二次長州征伐が決定する。
慶勝は再征に反対し、茂徳の征長総督就任を拒否させ、上洛して御所警衛の任についた。
征伐を受けそうになった長州藩は密かに薩摩藩と秘密同盟を結び(薩長同盟)、幕府軍を藩境の各地で破った。
慶応3年(1867年)10月14日には土佐藩の勧めで15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、徳川幕府が消滅した。
慶勝は上洛して新政府の議定に任ぜられ、12月9日の小御所会議において慶喜に辞官納地を催告することが決定、慶勝が通告役となる。
翌慶応4年(1868年)1月3日に京都で旧幕府軍と薩摩藩、長州藩の兵が衝突して鳥羽伏見の戦いが起こり、慶喜は軍艦で大坂から江戸へ逃亡し謹慎する。
慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取る。
そのうち、尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したとの知らせを受け、1月20日尾張へ戻って佐幕派を弾圧する(青松葉事件)。
閏4月21日議定を免ぜられ、その後政界に立つことはなくなった。
明治8年(1875年)、16代当主義宜の病死を受けて当主を再承した。
明治11年(1878年)から始まった旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓も指導。
明治13年(1880年)家督を養子徳川義礼(よしあきら、高松藩主松平頼聰の子)に譲り隠居。
明治16年(1883年)に死去、享年60。
墓所は東京都新宿区の西光庵。
官職位階履歴
※日付=旧暦。
但し、明治8年以降は新暦。
天保12年(1841年)閏1月4日、従四位下に叙し、侍従に任官。
中務大輔を兼任。
嘉永2年(1849年)
閏4月、掃部頭を兼任。
中務大輔の任替。
侍従如元。
6月4日、尾張国名古屋藩主となる。
7月9日、従三位に昇叙し、参議に補任。
左近衛権中将を兼帯。
嘉永3年(1850年)12月15日、権中納言に転任。
安政5年(1858年)藩主を退き、隠居する。
文久2年(1862年)従二位に昇叙し、権大納言に転任。
元治元年(1864年)参与となる。
また、長州征討軍総督となる。
慶応3年(1867年)12月9日、維新政府の議定に就任。
慶応4年(1868年)閏4月21日、議定を辞任。
明治3年(1870年)12月3日、名古屋藩知事に就任。
明治4年(1871年)7月13日、藩知事を止む。
明治8年(1875年)尾張徳川家の当主を再継承。
明治13年(1880年)当主を退き隠居する。
明治16年(1883年)8月1日、薨去。
明治43年(1910年)名古屋市昭和区御器所に鎮座する尾陽神社の祭神として祀られる。
大正7年(1918年)北海道開道50年記念式典で北海道拓殖功労者として道庁長官より表彰。
昭和9年(1934年)北海道八雲町の八雲神社 (八雲町)に合祀される。
家系
正室:矩姫(かねひめ)、丹羽長富の娘
側室:お玉の方(武藤氏)
三男:徳川義宜(尾張藩16代藩主)
三女:道姫(松平義生室)
四女:登代姫(徳川義礼室)
側室:由起(秋月氏)
側室:たけ(那須氏)
良姫:徳川義礼後室
富姫:毛利元昭室、後戸田康泰と再婚
側室:加津(鈴木高美養女)
十一男:徳川義恕:尾張藩分家祖、侍従長徳川義寛の父
ほか養子