徳川茂承 (TOKUGAWA Mochitsugu)

徳川 茂承(とくがわ もちつぐ)は、江戸時代末期の大名。
紀州藩第14代(最後)の藩主。
伊予国西条藩主・松平頼学の六男(七男との説もある)。
初名は頼久。

生涯

天保15年(1844年)1月13日、伊予国西条藩第9代藩主・松平頼学の六男として西条藩江戸江戸藩邸で生まれた。
幼名は孝吉。
弘化3年(1846年)6月24日、幼名を賢吉と改める。

安政5年(1858年)に第13代藩主・徳川家茂(当時は慶福)が第14代征夷大将軍に就任すると、幕命によりその後を受けて紀州徳川家の家督を継ぎ、紀州藩の第14代藩主に就任した。
翌安政6年(1859年)10月13日には元服し、名を頼久から家茂の「茂」を賜って茂承と改名した。
文久2年(1862年)に上洛した際には、孝明天皇に拝謁して天盃を賜っている。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発した際、茂承は病に倒れていた。
しかし、徳川御三家の一つである上、鳥羽・伏見の戦いで敗走した幕府将兵の多くが藩内に逃げ込んだため、新政府の討伐を受けかけた。
茂承は病を押して釈明し、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1,500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、勅命により京都警備の一翼までもを担ったのである。
このため、新政府は紀州藩の討伐を取りやめたという。

明治2年(1869年)の版籍奉還によって紀州藩知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で東京府に移住する。
明治6年(1873年)に江戸城(旧江戸城)で皇居として使用されていた西の丸御殿が焼失した際には、旧紀州藩江戸藩邸(現:東宮御所)を皇室に献納したことにより、金2万円を賞賜された。

明治政府が打ち出した徴兵令や秩禄処分などの新政策によって窮乏しつつある士族を見て、以下のように言った。
「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ。」
こうして明治11年(1878年)3月に自ら10万円を拠出し、旧紀州藩士族の共有資本として徳義社を設立した。
買収した田畑からの収入を用いて徳義中学校を開設し、窮乏する士族の援助育成に尽力した。

明治17年(1884年)7月7日、華族令により侯爵を叙爵し、明治23年(1890年)10月から貴族院 (日本)国会議員を務める。
日清戦争後、旭日章を受章した。
明治39年(1906年)8月20日、死去。
享年63(満62歳没)。
家督は婿養子の徳川頼倫(徳川慶頼の六男)が継いだ。

逸話

14代将軍・家茂とは気が合ったらしく、家茂が最も親しく交わりを結んでいたのが茂承であったのと同時に、茂承は家茂を慕っていたという。
茂承が第二次長州征伐で御先手総督として芸州口に出陣する際には大坂城の御座の間に迎え入れられ、家茂から直々に采配と陣羽織を授けられた後、人払いして二人だけで対面した。
これが家茂との今生の別れとなった。

経歴

※日付=旧暦 墓所:和歌山県海南市の慶徳山長保寺

天保15年(1844年)1月13日 - 誕生。
幼名:孝吉(伊予国西条藩主松平頼学の六男)

弘化3年(1846年)6月24日 - 幼名を賢吉と改める。

安政5年(1858年) - 紀伊国紀州徳川家の家督を相続し、紀州藩主となる。

安政6年(1859年)10月13日 - 元服し、第14代征夷大将軍徳川家茂の諱を一字賜り、茂承と名乗る。
従三位に叙し、参議兼近衛府に任官。

12月1日 - 中納言に転任。

12月6日 - 伏見宮邦家親王の娘倫宮(みちのみや)則子女王(1850年旧暦4月5日 - 1874年11月14日)と納采。

12月21日 - 則子女王と婚姻。

元治元年(1864年) - 正三位に昇叙。
権中納言如元。

8月6日 - 幕府第一次長州征討軍の総督となる。

8月8日 - 尾張藩主徳川慶勝と総督を交替。

慶応元年(1865年)5月 - 第二次長州征討軍の御先手総督となる。

明治2年(1869年)6月17日 - 紀州藩知藩事となる。

明治4年(1871年)7月14日 - 藩知事辞職。

明治10年(1877年) - 従二位に昇叙。

明治17年(1884年)7月7日 - 侯爵を叙爵。

明治39年(1906年)8月20日 - 薨去。
従一位勲等に叙勲。
享年63。
法名:慈承院殿剛健日純大居士。

[English Translation]