手児奈 (Tekona)
手児奈(てこな)とは、下総国勝鹿(葛飾)の真間(現在の千葉県市川市)に奈良時代以前に住んでいたとされる女性の名前。
「手古奈」、「手児名」などとも表記する。
一つの説によると、手児奈は舒明天皇の時代の国造の娘で、近隣の国へ嫁いだ。
しかし、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。
しかし、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育ててつつ静かに暮らした。
だが、男達は手児奈を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江(現在の真間川付近に広がっていた)に入水したと伝えられている。
古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、詩人たちの想像力をかきたてた。
万葉集には高橋虫麻呂や山部赤人らによって詠われたこの伝説に関する歌が複数見られる。
737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺 (市川市)を開いた。
現在は手児奈霊神堂に祀られている。
また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。
上田秋成による『雨月物語』の一編「浅茅が宿」は同じく下総葛飾の真間を舞台とし、手児奈の伝説をベースとしている。