日野勝光 (HINO Katsumitsu)

日野 勝光(ひの かつみつ、永享元年(1429年) - 文明 (日本)8年6月15日 (旧暦)(1476年7月6日))は室町時代の公家。
名家 (公家)の家柄、日野家の当主。
日野重政の子で、母は北小路苗子。
妹の日野富子は将軍足利義政の正室。

父政光が出家したため6歳で家督を相続。

妹である富子を将軍義政の正室に入れ、足利義尚の将軍職就任に寄与して、さらに娘を義尚の夫人に入れる。
左大臣まで昇進した。
蓄財にもはげみ、その権威の大きさから「押大臣」と評される。

1476年(文明8年)没。
医師竹田昭慶による毒殺説もある。
法号は唯称院。

官職位階履歴

1446年(文安3)12月7日、右少弁に任官。

1447年(文安4)3月17日、蔵人に補任。
右少弁如元。

1448年(文安5)1月5日、正五位下に昇叙し、蔵人右少弁如元。

1450年(宝徳2)3月29日、従四位下に昇叙し、右中弁に転任し、蔵人頭も兼帯。
4月、従四位上に昇叙し、蔵人頭右中弁如元。
4月26日、右大弁に転任し、蔵人頭如元。
6月29日、正四位下に昇叙し、蔵人頭右大弁如元。
10月7日、参議に補任し、右大弁如元。

1451年(宝徳3)1月5日、従三位に昇叙し、参議右大弁如元。
2月、左大弁に遷任。
参議如元。
3月26日、権中納言に転任。

1452年(享徳元)8月11日、正三位に昇叙し、権中納言如元。

1455年(康正元)8月27日、従二位に昇叙し、権大納言に転任。

1459年(長禄3)12月14日、正二位に昇叙し、権大納言如元。

1465年(寛正6)7月25日、従一位に昇叙し、権大納言如元。

1466年(文正元)、院(後花園上皇)執事を兼帯。

1467年(文正2)2月6日、内大臣に転任し、院執事を辞す。

1468年(応仁2)12月、内大臣を辞任。

1476年(文明 (日本)8)5月16日、左大臣に任官。
6月14日、左大臣を辞任。
6月15日、薨去。48歳。
法名:唯稱院殿圓長久冨大居士

[English Translation]