日野義資 (HINO Yoshisuke)
日野 義資(ひのよしすけ、応永4年(1397年) - 永享6年6月9日 (旧暦)(1434年7月15日))は室町時代の人物。
公家。
藤原北家日野家22代当主。
21代当主・日野重光の三男。
正三位権大納言。
応永14年11月19日、足利義満の北山第において元服が行われ、義満自身が烏帽子親となって「義」の偏諱を授けた。
これは義資が義満の正室日野康子の甥であったことによるが、当時上の一字を授けることは破格の待遇を意味していた。
足利義教が6代将軍に決定すると、義教の御座所として自宅の裏松邸を提供した。
また、足利義持夫人日野栄子と協議して、妹の日野宗子を義教の正室に立てている。
しかし、義教が将軍になると青蓮院門跡時代の義教に不忠の廉があったとして、所領を二ヶ所没収され、蟄居を命じられた。
将軍の御台所となった宗子は義教と不仲であり、永享3年に離別されている。
その後、もう一人の妹日野重子が義教の側室となった。
重子が嫡子・足利義勝を産んだ時、蟄居していた義資の屋敷に人々が次々と祝いに訪れた。
しかし、義教はこれに激怒し、祝いに訪れた者すべてを処罰する。
そして永享6年6月9日 (旧暦)、義資は何者かに殺害され、首を持ち去られた。
犯人は捕まらず、当時から義教の指示であるという噂が流れていた。
なお、この噂をした参議高倉永藤は硫黄島 (鹿児島県)に流されている。
家督を継いでいた嫡男・日野重政もこの際に所領を没収されて出家しており、日野家は一時没落した。