春澄洽子 (HARUSUMI no Amaneiko)

春澄 洽子(はるすみ の あまねいこ、生没年不詳)は平安時代の女官、歌人。

出自

公卿春澄善縄の娘として生まれる。
父善縄は元々伊勢国員弁郡を本拠地とする地方豪族猪名部氏の一族であったが、天長5年(828年)に春澄宿禰の姓を授けられた。
善縄には四人の子供がいたとされるが、いずれも大成せず、洽子を最後に春澄氏は歴史から消えることとなった。
父善縄の死後、貞観 (日本)15年(873年)9月に一族の代表として氏神奉幣のために本貫伊勢国員弁郡に下っている。

女官として

洽子は清和天皇、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇の五代の天皇に仕えた。
初名を高子といったが、元慶元(877年)2月に陽成天皇が母后藤原高子の名に触れる女官たちに改名を命じたため高子から洽子に改める。
仁和3年(889年)に従四位下掌侍に進む。
そののちに典侍となり尚侍藤原淑子の下で、光孝天皇の死去の際には鈴印供奉の大役を務めている。
寛平8年(896年)に従四位上。
延喜2年(902年)に従三位の高位を賜った。
特に、宇多天皇からの信任厚く、「寛平御遺誡」には糸所に出仕中の洽子への高い評価が記されている。
醍醐天皇の受禅の際には剣璽使の大役を果たした。

歌人として

宇多天皇の女御藤原温子の元に出入りしており、古今和歌集に次の一首が採られている。
「散る花の なくにしとまる ものならば 我うぐひすに おとらましやは」
大和物語には糸所の別当として洽子が登場しており、温子のサロンで歌人の伊勢 (歌人)、兵衛の命婦(藤原高経女)、一のみこ(均子内親王、温子の一人娘)で行われた歌会に参加した様子が描かれている。

[English Translation]