朝倉義景 (ASAKURA Yoshikage)

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代 (日本)の武将。
越前国の戦国大名。
越前朝倉氏第11代(最後)の当主。

家督相続

天文 (元号)2年(1533年)9月24日、越前の戦国大名で朝倉氏の第10代当主である朝倉孝景 (10代当主)の長男として生まれる。
このとき、父の孝景は40歳であり、唯一の実子であったとされる(しかし出生については異説がある)。
幼名は長夜叉と称した。

天文17年(1548年)、父の孝景が死去したため家督を相続して第11代当主となり、延景と名乗る。
当初は若年のため、弘治_(日本)元年(1555年)までは、一族の名将・朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐されていた。
天文21年(1552年)6月16日、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と改名する。
この頃、左衛門督に任官した。

弘治元年(1555年)に宗滴が死去したため、義景は自ら政務を執るようになる。
永禄2年(1559年)11月9日には、従四位下に叙位された。

永禄8年(1565年)、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺された。
義景は義輝の弟・足利義昭(義秋)を越前一乗谷に迎えて保護したが、義昭が望む上洛戦には冷淡であったため、義昭は、美濃国を支配下において勢いに乗る織田信長を頼って越前から去ってしまった。
永禄10年(1567年)、家臣の堀江景忠が一向一揆と通じて謀反を企てた(朝倉景鏡の讒言という説は誤りである)。
加賀から来襲した一揆軍と交戦しつつ、義景は山崎吉家・魚住景固に命じ堀江家に攻撃をしかける。
景忠も必死に抗戦をするが、結局、和睦して景忠は加賀国を経て能登国へと没落した。
永禄11年(1568年)、若狭国守護・武田氏の内紛に乗じて介入し、当主である武田元明を保護という名目で越前一乗谷に軟禁し、若狭も支配下に置いた。
この若狭侵攻は当時上洛作戦を展開していた織田信長と浅井長政の援護が目的であったとの説もある。
しかし義景は、次第に政務を放棄して一族の朝倉景鏡や朝倉景健らに任せて、自らは遊興に耽るようになったと言われている。

信長包囲網

永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、やがて幕府政治の復活を目指す義昭と対立するようになり、義昭は信長討伐のため、義景にしきりに御内書を送るようになる。
一方、信長は将軍命令であるとして、義景に対して2度にわたって上洛を命じるが、義景は拒否する。
このため永禄13年(1570年)4月、義景は織田信長・徳川家康の連合軍に攻められることとなる。
連合軍の攻勢の前に、支城である天筒山城と金ヶ崎城が落城し、一乗谷も危機に陥るが、浅井長政が信長を裏切って織田軍の背後を襲ったため、信長は京都に撤退した。
このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた池田勝正に迎撃され、信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまった。

元亀元年(1570年)6月、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川で激突する(姉川の戦い)。
しかし朝倉軍の総大将は義景ではなく、一族の景健であった。
朝倉軍は徳川軍と対戦したが榊原康政に側面を突かれて敗北し、姉川の戦いは敗戦に終わった。
ただし、後述のようにこの三ヵ月後に朝倉軍は再度出兵を行っており、巷でいわれたほどの大損害を受けたとは考えにくい。

9月、信長が三好三人衆・石山本願寺討伐のために摂津国に出兵(野田城・福島城の戦い)している隙をついて、義景は自ら出陣し、浅井軍と共同して織田領の近江坂本に侵攻する。
そして信長の弟・織田信治と信長の重臣・森可成を敗死に追い込んだ。
しかし信長が軍を近江に引き返してきたため、比叡山に立て籠もって織田軍と対峙する(志賀の陣)。
しかし信長が朝廷工作を行なったため、12月に信長と勅命講和することになる。

元亀2年(1571年)6月、義景は顕如と和睦し、顕如の子・教如と娘の婚約を成立させた。
8月、義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが、逆に信長に兵站を脅かされて敗退した。

元亀3年(1572年)7月、信長が小谷城を包囲したため、その支援に赴く。
この時は信長も義景が援軍に来たため、小谷城を攻めることは無く、両軍は睨み合いに終始する。
しかし織田軍に虎御前山・八相山・宮部の各砦を整備された事により、これ以降の朝倉軍の軍事行動は著しく制限される事になる。
また、これらの砦の構築を阻害しなかった事による戦況の悪化と、それに伴う信長方の調略によって、朝倉家では前波吉継や富田長繁ら有力家臣の多くが信長方に寝返ってゆく。

その最中の10月、甲斐国の武田信玄が上洛を目指して織田・徳川領に侵攻する。
信長は義景と対峙していたため、本隊を武田軍に向けることができず、織田・徳川軍は次々と武田軍に諸城を奪われた。
10月に信長が岐阜に撤退すると、それに乗じて義景は浅井勢と共同で打って出るが、虎御前山に残っていた織田軍の抵抗にあい撤退。
義景も12月に部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退してしまい、そのため信玄から激しい非難を込めた文章を送りつけられる(伊能文書)。

そして元亀4年(1573年)4月、朝倉家にとって同盟者であった武田信玄は陣中で病死し、武田軍は甲斐に引き揚げた。
このため、信長は織田軍の主力を朝倉家に向けることが可能になった。

一乗谷炎上

天正元年(1573年)8月8日、信長は3万を号する大軍を率いて近江に侵攻する。
これに対して義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、数々の失態を犯し重ねてきた義景はすでに家臣の信頼を失いつつあり、「疲労で出陣できない」として朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが義景の出陣命令を拒否する。
このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣した。

8月12日、信長は暴風雨を利用して自ら朝倉方の砦である大嶽砦を攻める。
信長の電撃的な奇襲により、朝倉軍は大敗して砦から追われてしまう。
8月13日には丁野山砦が陥落し、義景は長政と連携を取り合うことが不可能になってしまった。
このため、義景は越前への撤兵を決断する。
ところが信長は義景の撤退を予測していたため、朝倉軍は信長自らが率いる織田軍の追撃を受けることになる。
この田部山の戦いで朝倉軍は大敗し、柳瀬に逃走した

このときの朝倉軍の潰走ぶりが、以下のように越州軍記にはある。
「義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。」

「此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。」
「泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。」
「軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ」

信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂において織田軍に追いつかれ、壊滅的な被害を受けてしまう。

義景自身は命からがら疋壇城に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死してしまった。

義景は疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、この間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。
8月15日、義景は一乗谷に帰還した。
ところが朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半は逃走してしまっていた。
義景が出陣命令を出しても、朝倉景鏡以外には出陣してさえ来なかった

『越州軍記』には、この時の悲惨な状況が、次のように記されている。

「義景15日に館へ入せ玉へば、昔の帰陣に引替、殿中粧条寂莫として、紅顔花の如くなりし上籠達も、一朝の嵐に誘はるる心地、涙に袖をしぼり、夜の殿に入せ玉ひても、外の居もなし。
寝頭に星を烈し武士老臣も、満天の雲に覆われて、参する人独もなかりければ、世上の事何とか成ぬらんと、尋聞かるべき便もなし」

8月16日、義景は景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れた。
8月17日には平泉寺に援軍を要請する。
しかし信長の調略を受けていた平泉寺は義景の要請に応じるどころか、東雲寺を逆に襲う始末であり、義景は8月19日、賢松寺に逃れた。

一方、8月18日に信長率いる織田軍は柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込み、手当たり次第に放火した。
この猛火は、三日三晩続き、これにより朝倉家100年の栄華は灰燼と帰したのである。

最期

従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていた義景であったが、8月20日早朝、その景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を襲撃する。
ここに至って義景は遂に壮烈な自害を遂げた。
享年41。

死後、高徳院や小少将、愛王丸ら朝倉一族も信長によって全て虐殺され、かくして朝倉家は完全に滅亡した。
義景の首は信長によって、京都で獄門に曝された。

その後、浅井久政・浅井長政共々髑髏に箔濃(はくだみ)を施され、信長が家臣に披露したというのは事実であるが、杯にして酒を飲ませたというのは作り話である。

辞世の句

「七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
「かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ」

人物

義景は現在においても暗愚な武将として評価されることが多い。
その理由として、足利義昭が亡命してきたときに上洛すれば天下を取れる絶好の機会であったのに、それをみすみす逃がした。
また元亀3年(1572年)12月に信長が岐阜に撤退したとき、追撃すれば信長を討ち取れる可能性もあったのに、それをみすみす逃がしたりしているからである。
ただ、これは天下を取る野望が無かっただけ、とも解釈できる。

実際は足利義昭は他の多くの大名家に上洛を促しても無視されている。
また上洛して義昭を将軍とするとなると三好家と事を構える事となり、当時の浅井・朝倉連合ではこれを破って上洛する事は難しいと思われる。

越前の名族・朝倉家の当主としての自尊心だけは高かったらしく、義景から見れば陪臣に過ぎない信長の膝下に入ることを最後まで拒絶している。
しかし、これも後述のように義景が六角氏から養子として入ったならば、納得できる。

武田信玄が織田領に迫る中、義景が越前に帰還したのは、「仮に信長を打倒できたとしても、その後釜に信玄が座るのでは、結局はおなじことではないか」という考えがあったからではないかともされている。
しかし実際は織田との長期間の交戦による経済状況の悪化、それにより国内の事を優先せざるを得なくなっただけである。

一乗谷に一大文化圏を築き上げたことは、現在においても評価が高い。

挿話

元亀元年(1570年)の信長との講和の際、信長は義景に対して土下座した上、次のようにまで言ったとされている(三河物語)。
「天下は朝倉殿(義景)持ち給え。我は二度と望みなし」

家族

義景は天文17年(1548年)、細川晴元の娘と結婚した。
しかしこの正室は女児を出産した直後に死去してしまった。

義景は2人目の正室として近衛稙家の娘を迎えた。
この正室は「容色無双ニシテ妖桃ノ春ノ園ニ綻ル装イ深メ、垂柳ノ風ヲ含メル御形」(朝倉始末記)と評された美女であったが、義景との間に子ができなかったため、離縁されて実家に送り返された。

近衛稙家の娘の後、義景は側室の小宰相を寵愛した。
彼女は朝倉氏の重臣・鞍谷副知の娘である。
小宰相は永禄4年(1561年)に義景との間に初めての男児である朝倉阿君丸を生んだ。
ところがその後、小宰相は病死し、阿君丸も永禄11年(1568年)に早世してしまった。
嫡男・阿君丸と寵愛した小宰相の死去、さらに家臣の離反など、相次ぐ不幸が義景の関心を政治から遠ざけたとされる。
義景は小少将を側室に迎えた後、酒池肉林に溺れたと言われている。
『朝倉始末記』においては義景と小少将の関係について、以下のように述べている。
「此女房(小少将)紅顔翠戴人の目を迷すのみに非ず、巧言令色人心を悦ばしめしかば、義景寵愛斜ならず」、
「昼夜宴をなし、横笛、太鼓、舞を業とし永夜を短しとす。秦の始皇、唐の玄宗の驕りもこれに過ぎず」
姉川の戦いの際にも、義景は小少将を寵愛して一乗谷に引き籠っていたとされる。

親交のあった人々

足利義昭
六角氏綱
二条晴良

異説

義景は以下の事実から近江六角氏からの養子であった、という説がある。

義景の父(朝倉孝景 (10代当主))と六角氏との間の密約

義景側近に六角系苗字が多い、

六角氏の内紛に介入

六角氏様式の花押と朝倉氏式のそれとを併用

六角氏綱の子で仁木氏の家督を継承した仁木義政と親しい間柄であった。

譜代家臣団の大量離反や、朝倉当主の急激な指導力・求心力低下、朝倉景鏡と義景の軋轢などが「朝倉氏の血脈である一門(筆頭・朝倉景鏡)、家来衆」と「六角氏からの養子である本家当主」という構図が解りやすく研究解明が待たれる説である。

[English Translation]