本庄時家 (HONJO Tokiie)

本庄 時家(ほんじょう ときいえ、生没年不詳)は、鎌倉時代前期の武蔵国児玉党の武将(実質的に児玉党本宗家を継いだ)。
児玉党本宗家5代目である庄家長の四男。
通称は四郎。
官位は左衛門尉だが、のちに解雇される。
北堀地内に居館(本田館)を構え、北堀丹波守時家と称した。
児玉党の庄氏から初めて本庄氏を名乗ったと考えられる人物の1人。

庄氏から本庄氏を名乗る経緯
児玉党の本宗家を継ぎ、6代目となった庄頼家が一ノ谷の戦いで若くして戦死した為、家長は三男である庄家次(頼家の弟)を頼家家の養子として迎えさせ、児玉党本宗家7代目を継がせる。
しかし、家次は備中国の地頭に任ぜられて赴任。
そのまま永住し、一族は備中庄氏となっていく。
庄氏本宗家が児玉党の本拠地である栗崎館を去ってしまった為、四男である四郎左衛門尉時家が祖父(児玉党本宗家4代目庄家弘)の代からの祖地を守る事となり、本庄氏を名乗る事となる。
その意味は、「本宗家の庄氏」と言う意味ではなく、「本拠地(本=地元)に残った庄氏」と言う意味で本庄を名乗ったものと考えられる。
大字北堀の字本田(現在の埼玉県本庄市北堀)の地に館を構えたものとみられる。

本庄氏を名乗る時期と名の意味

『吾妻鑑』に、安貞3年(1229年)1月3日の年始の儀に、本庄四郎左衛門尉の名で記されているのが文献上での初見である。
貞永2年(1233年)1月3日の年始の儀にも本庄左衛門尉としてその名が記されている。
また、嘉禎4年(1238年)2月17日には、鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の入洛(京都へ行くの)に際し、192騎いる先陣の御所随兵の22番として、本庄四郎左衛門尉時家、25番に本庄朝次、他、四方田氏一族など児玉党武士の名前が見られる。
これらの事から13世紀初めの末から中頃の初めにかけて、すでに本庄氏を名乗っていた事が分かる(「本庄」と言う文字だけなら、12世紀末の文治4年(1188年)7月13日条にも見られる)。

いくら庄氏本宗家が遠くに土着したからと言って、分家が本宗家を勝手に名乗れば、庄氏同士で争いになりかねない。
いつ本宗家が帰って来るか分からない状況で、分家である時家が、「本宗家の庄氏(本庄)」を名乗れるはずがない。
時家が継いだのは児玉党の本宗家と言う形式的な地位であって、庄氏の家督ではない。
本庄と言う名は、「庄氏の本(モト)の地を守る」と言った意味合いの方が高く、庄氏発祥地を主張した名である(庄氏が各地に拡大する中で生じた)。

家次の子息である朝次が児玉の栗崎の地を継がなかった事から、当地を守護していた時家を児玉党本宗家8代目と捉える事もできる。

馬盗人として
『吾妻鏡』によれば、仁治2年(1241年)5月6日条、「臨時の定評あり。
昨(きのう)の式日、鶴岡八幡宮の神事によって延引するが故なり。
外記左衛門尉俊平を奉行として本庄四郎左衛門尉時家所帯を召し放されると云々。
これ小林小次郎時景が所従藤平太が妻女、路次を通るのところ、時家馬二疋(ひき)を押し取り、口付小次郎が男をからめ取りをはんぬ」「狼藉(ろうぜき)の科に行はるべきの由、時景訴へ申すによってなり。
狼藉により時家所領没収」とある。

要約すると、小林時景の家来である藤平太の妻が馬に乗り、もう一頭に荷物を運ばせていたところ、この馬二頭を時家が奪い取ったとしている。
その為、鎌倉に召喚され、解雇したうえで所領を没収された。
この事は、『北武蔵名跡志』にもあり、「上州の馬盗人」として紹介されている。
但し、訴えた側の口述のみ記され、なぜ時家が馬を奪う必要があったのかは一切記述されておらず、文も短い為、客観的に考察する事はできない。
そもそも党本宗家の領地を守護する身で、なぜその様な犯罪を起こしたのかも謎である。
付け加えて、「上州の馬盗人」とあるが、当然、本庄は武州に当たる。

吾妻鏡における最後の記述
『吾妻鏡』で時家の名が最後に確認できる記述は、建長2年(1250年)3月1日条、造閑院殿雑掌の事、において、二条面西洞院東二十本、の項に、一本 本庄四郎左衛門尉、とあるのが最後となる(京都に出向いていた事は分かる)。
この項に、兄である三郎右衛門家次の名が、「本庄三郎左衛門」として初めて見られ、確認できるが、『吾妻鏡』の人名の誤記や混同の多さから考えて、本来は「庄三郎右衛門」と考えられる。
時家は兄頼家の没年から考えても13世紀中頃には没したと推測される。

その後の系譜の謎
14世紀中頃(1337年)の合戦により、庄氏ゆかりの宥荘寺(後に宥勝寺として再建)が焼失した事もあって、本庄氏の系譜(特に時家から信明まで)は、はっきりとしないのが現状である。
しかし、時家の曾孫として本庄国房の名は確認できる。
古文献によると、鎌倉時代後期、正和3年(1314年・14世紀初め)に、由利頼久との間に本庄の生子(五十子)屋敷と立野林の畠地について争いが生じた。
鎌倉幕府の裁定により、頼久の知行が認められたとある。
また、複数ある系図の一つには、「家長の子(三男)、本庄三左衛門時家」の名で載っている。
この系図によると、その子の名は七左衛門家房と言い、その子を太左衛門泰房と言い、その子を太郎国房と言う。
資料としての信憑性については確かな系図ではない為、断定する事はできないが、この系図に従うと、本庄時家→本庄家房→本庄泰房→本庄国房となる。

分かっている事は、南北朝時代 (日本)(14世紀中頃から末)、児玉党は南朝方に味方しているので、党本宗家となった本庄氏も南朝に組みだてしていたものと見られる。
その後、児玉党は15世紀初めの時点で犬懸上杉家に味方し、15世紀中頃になると山内上杉家の家臣(家人)となり、代々従えたと言う事である。

系図には、時家のもう一人の末流として、忍城主成田氏の家臣、本庄長英の名がある。
複数系図が存在する為、時家から長英までの系譜の流れを断定する事はできない。

[English Translation]