松井興長 (MATSUI Okinaga)
松井興長(まついおきなが、天正10年(1582年) - 寛文元年(1661年))は、安土桃山時代、江戸時代の人物。
細川幽斎以来の細川氏家臣。
熊本八代の初代城主(正式には八代城代。)
(それまでは忠興が隠居場として八代城を使用)。
父は松井康之。
正室は細川忠興娘の古保(こほ)。
式部大輔・佐渡守。
出自
松井氏は室町幕府の足利将軍家に仕える家で京都に住んでいた。
将軍足利義輝が永禄の変(永禄8年・1565年)で殺害されると、松井康之は同じく足利将軍家に仕えていた細川幽斎と行動を共にするようになり、その後家臣となった。
戦国時代 (日本)に細川家は丹後国の領主となり、家老の康之は丹後国松倉城を任せられた。
松井一族の働きぶりをみた豊臣秀吉は康之を石見国半国18万石の大名にとりたてると申し出たが、康之はこのまま細川家に仕えることを希望し辞退した。
しかし事件が起こった。
細川氏が豊臣秀吉から関白豊臣秀次の謀反連座の疑いをかけられたのである。
秀次からの借銀の返済や、秀次縁者に嫁していた忠興の娘御長(おちょう)差出要求に対して松井康之が奔走し、ことなきを得た。
興長はこの康之の次男である。
これに感謝して、細川忠興は娘こほ(11歳)を興長の妻とした。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、細川家は、関ヶ原、丹後田辺城、豊後杵築城と三方面で戦闘したが、興長は忠興に従って会津征伐、関ヶ原の戦いへ赴いた。
なお、興長は岐阜城攻めで負傷したため、関ヶ原での合戦には参戦していない。
戦後、細川忠興は豊前国・豊後国(現在の福岡県と大分県の一部)39万石余りの大名となったが、戦後、松井康之は豊後国木付(杵築)城を任せられて2万5千石という大名格の領地が与えられた。
松井興長の経歴
松井佐渡こと松井興長は天正10年(1582年)に丹後国久美浜で康之の二男として生まれた。
兄松井興之が朝鮮出兵で戦死したため松井家の世子となり、慶長16年(1611年)、父・康之が隠居したのに伴い松井家の家督を相続した。
1600年関ヶ原当時に細川家世子であった細川忠隆からの松井興長(新太良)あての自筆書状5通が松井文庫に現存している。
寛永9年(1632年)、細川家が豊前・豊後から肥後国熊本藩に国替になると、興長には玉名郡・合志郡の内に3万石が与えられた。
寛永14年(1637年)に島原の乱が起こると、藩主細川忠利の命により派兵の手配、幕府や他藩との交渉に奔走し、翌年の原城の戦いでは、自ら3,700余りの兵を率いて出陣した。
正保2年(1645年)に八代城主だった細川忠興(三斎)が亡くなると、正保3年(1646年)から興長が八代城を預かることになった。
八代城は一国一城令の例外とされて存続し、代々松井家が八代城主を務めた。
興長は、忠興の六男(細川寄之)を養嗣子に迎え、細川別姓である長岡姓を賜り、長岡佐渡守と称した。
興長は慶長5年(1600)の19歳での初陣以来80歳で亡くなるまで細川忠興、忠利、細川光尚、細川綱利の4代の主君に仕え、細川氏を支えた。
松井家は細川血族として代々筆頭家老を勤め、明治まで続く。
松井家は細川家臣でありながら、実質上の肥後八代支藩3万石の大名格藩主であったともいえる。
熊本県八代市の八代市立博物館や松井文庫には、第二次世界大戦の空襲を免れた多くの松井家歴代の史料が残されており、研究が進められている。