松原忠司 (MATSUBARA Chuji)
松原 忠司(まつばら ちゅうじ、 天保五年(1835年)?- 慶応元年9月1日 (旧暦)(1865年10月20日))は新選組において副長助勤及び四番隊組長と柔術師範を務めた播磨国出身の浪士(永倉新八によれば大坂浪人)。
後述のようにその死については諸説ある。
略歴
播州小野藩士の子として生まれる。
安政年間に脱藩。
大坂にて関口流の道場をひらいていたといわれる。
文久三年五月には新撰組の前身である壬生浪士組に入隊している。
文久三年、八月十八日の政変では坊主頭に白鉢巻、脇には大薙刀を備え弁慶さながらの格好で仙洞御所前および禁裏御所南門の警備にあたり、「今弁慶」の異名をとる。
元治元年の池田屋事件では土方隊に属し、当夜の戦功により報奨金15両を賜る。
慶応元年四月の組織再編で四番隊組長・柔術師範となる。
慶応元年、死去。
その死については諸説ある。
風体・人柄
坊主頭で色白の巨漢。
温厚な人柄で知られ、「親切者は山南(山南敬助)と松原」といわれたという。
山南が自分の鎧がないことに腹を立て、それをなだめた逸話が残る。
『今弁慶』の異名
松原は、八月十八日の政変の出動の際、丸坊主に白鉢巻、薙刀を携え、さらに巨漢であった。
その異様な出で立ちから、『今弁慶』の異名を取ったと言われる。
松原の死
松原の死については病死と心中という二つの説がある(新選組の記録には「病死」とある)。
何らかの理由で切腹したが未遂に終わり、その後平隊士に降格されたという点は多くの話で共通する。
しかし心中説は子母沢寛(あるいは八木為三郎)が「新選組物語」にて「壬生心中」として創作したのではないかといわれる。
病死説
何らかの失策により切腹を図るも制止され、その傷がもとで病死した。
心中説
松原が四番隊組長並びに柔術師範となってからまもなく、松原は屯所の近くに愛人(自分が殺害した浪人の妻女)を囲っており、その件を副長の土方歳三に厳しく咎められた。
そこで、幹部としての責任を感じ自ら切腹。
しかし、失敗に終わり(篠原泰之進がいち早く発見)疵を負った。
一旦は直り、平隊士に降格。
自暴自棄に陥ったようだ。
それからしばらくして、疵が悪化し、それがもとで死に至った。
2004年の大河ドラマ『新選組!』もこの説に従った物語となっている。
松原は長州藩士の未亡人に懐刀で刺され、夫の仇を討たれた事になっている。
(未亡人はその場で斬り捨てられ、表向きは二人の心中として片付けられるのである。)
「壬生心中」について
松原の死に関しては、新選組が屯所を構えていた八木家の八木為三郎が篠原泰之進や斎藤一から聞いた松原忠司の話を子母沢寛が再構成した「壬生心中」がある。
しかし、子母沢寛の作品や八木為三郎の語る話には脚色や創作がしばしば見られるため、この話も事実であるかどうかには疑いがある。
その他
墓は光縁寺にある。