松平春嶽 (MATSUDAIRA Shungaku)
松平 春嶽(まつだいら しゅんがく)は、江戸時代後期の大名、第16代越前国福井藩主。
明治の政治家である。
春嶽は号 (称号)で、慶永(よしなが)が諱である。
田安徳川家第3代当主・徳川斉匡の八男。
松平斉善の養子。
将軍徳川家慶の従兄弟。
英邁な藩主で、四賢侯の一人と謳われた。
明治維新後の初期にも重要な役割を果たした。
藩主就任まで
江戸城内の田安邸に生まれる。
中根雪江に教育を受け、天保9年(1838年)に斉善が死去すると11歳で藩主となる。
同年、元服。
将軍徳川家慶の一字を賜り、慶永と名乗る。
正四位下、左近衛権少将・越前守に叙任。
中根や由利公正、橋本左内らに補佐され、洋楽所の設置や軍制改革などの藩政改革を行う。
嘉永4年(1851年)左近衛権中将。
嘉永6年(1853年)アメリカのマシュー・ペリー率いる艦隊が来航して通商を求めた際には、水戸徳川家の徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬とともに海防強化や攘夷を主張するが、老中の阿部正弘らと交流して開国派に転じる。
安政の大獄
13代将軍徳川家定の将軍後継問題では、橋本左内を京都に派遣して運動させ、一橋徳川家当主の一橋慶喜(後の徳川慶喜)を後押しする。
幕閣では将軍後継問題で紀州徳川家の徳川慶福(後の徳川家茂)を推す南紀派で彦根藩主の井伊直弼が大老となり、14代将軍後継は慶福に決定する。
幕府が朝廷の勅許無しでアメリカとの日米修好通商条約を調印すると春嶽は徳川斉昭らとともに登城をして抗議し、不時登城の罪を問われて謹慎処分を下された。
また左内は処刑される(安政の大獄)。
明治維新まで
井伊直弼は桜田門外の変で暗殺され、春嶽は文久2年(1862年)に幕政への参加を許される。
朝廷では島津斉彬の死後、弟の島津久光が兵を率いて京都へ上洛し、政局に積極的に関わっていた。
久光は勅使の大原重徳とともに江戸へ下り、慶喜将軍後見職就任や春嶽の政事総裁職就任を求める。
7月9日、春嶽は新設の政事総裁職に就任し、慶喜とともに京都守護職の設置、会津藩主松平容保の守護職就任、将軍の上洛など公武合体政策を推進する(→文久の改革)。
春嶽は熊本藩出身の横井小楠を政治顧問に迎え、藩政改革や幕政改革にあたって彼の意見を重用した。
翌文久3年(1863年)には上洛するが、京都では長州藩など尊皇攘夷派が強く、慶喜が尊攘派と妥協しようとすると反対して3月2日に総裁職を辞任する。
会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変で長州藩が追放され、禁門の変で長州が失脚すると参預となる(→参預会議)。
元治元年(1864年)2月15日には軍事総裁職に転じた容保に替わり京都守護職に就任し、翌日、越前守から大蔵大輔に転任する。
しかし、4月7日には京都守護職の任を免ぜられる。
慶応3年(1867年)には、島津久光や前土佐藩主の山内豊信(容堂)、宇和島藩主・伊達宗城らと四侯会議を開き、朝敵となった長州の処分について話し合い、春嶽は長州征伐には反対するが、2次に渡る長州征伐に至る。
12月9日の王政復古 (日本)の宣言の前日、朝廷より議定に任命される。
維新後
王政復古後の薩摩藩、長州藩の討幕運動には賛成しなかった。
維新後、新政府では慶応4年(1868年)1月17日に内国事務総督、明治2年(1869年)5月15日民部官知事、同年7月8日民部卿、8月11日には大蔵卿を兼任。
8月24日には大学別当・侍読に就任。
同年9月26日に正二位に叙せられた。
明治3年(1870年)に政務を退く。
明治14年(1881年)勲二等旭日重光章受章。
明治21年(1888年)に従一位に叙せられ、翌年勲一等旭日大綬章を受章。
明治23年(1890年)に小石川の自邸で死去、享年64。
墓所は東京都品川区の補陀洛山海晏寺。
死の翌年の明治24年(1891年)には佐佳枝廼社(越前東照宮)に春嶽の霊が合祀された。
昭和18年(1943年)には春嶽を主祭神とする別格官幣社福井神社が創建された。
辞世の歌は、「なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため」。
人物・逸話
「明治」という年号は春嶽が命名したという
著作に『逸事史補』
家系
父:徳川斉匡(田安徳川家3代)
養父:松平斉善 (福井藩13代)
母:お連以の方(側室)
兄弟
同母兄弟
徳川慶臧(尾張徳川家13代)
異母兄弟
徳川斉位
徳川慶壽
徳川慶頼
近姫(一橋徳川家4代徳川斉礼室)
愛姫(尾張徳川家11代徳川斉温室)
猶姫(尾張徳川家12代徳川斉荘室)
ほか
正室:勇姫(熊本藩10代藩主細川斉護娘)
松平慶民(次男)
徳川義親(五男、尾張徳川家)
松平節子(松平康荘 妻)
松平正子(毛利某正室)
松平千代子(三条公美正室)
松平里子(徳川厚 妻)
養子:松平茂昭(糸魚川藩主松平直春子)