松殿師家 (MATSUDONO Moroie)
松殿 師家(まつどの もろいえ、承安 (日本)2年(1172年) - 嘉禎4年10月4日 (旧暦)(1238年11月11日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。
松殿基房の三男。
母は太政大臣花山院忠雅の女忠子(安徳天皇乳母)。
異母兄弟に藤原隆忠、藤原家房、行意、実尊などがある。
母方の花山院家は後白河法皇・平清盛の双方と繋がりがあり、両者の勢力均衡の上に立って影響力を保持していた。
そのような政治事情を背景に、師家は三男ながら正嫡の扱いを受けており、治承3年(1179年)にはわずか八歳にして権中納言に昇任する。
これは基房の意を介した法皇の意向であったが、かねてより法皇側近グループの動きに不信感を強めていた清盛の反発を招き、同年におけるいわゆる「治承三年の政変」の契機の一つとなった。
この結果、基房・師家父子は解任され、一旦は失脚の憂き目を見る。
基房に代わる関白として、親平家派である近衛基通(基房の甥)が勢威を得た。
四年後の寿永2年(1183年)、平家西走と源義仲の上洛という局面を迎えると、基房は失地回復のための行動に打って出る。
娘の藤原伊子を義仲の側室として差し出しその信を得ると、同年11月、わずか12歳の師家を従二位・摂政・内大臣・藤氏長者の地位につけることに成功し、基通から摂関家内部における主導権を奪還した。
しかし翌年1月、源範頼・源義経らと戦って義仲が滅亡すると、基房一族は再び失脚してしまう。
師家は在任わずか数ヶ月にしてその地位を失って退隠し、以降半世紀近くに渡り官に復することもなかった。
この間、神童の誉れ高かった外甥の道元を養子に迎えて失地回復を図ったと言われるが、失敗に終わっている。
官歴
治承2年(1178年)4月26日、元服し、正五位下に叙位。
禁色と昇殿を許される。
6月7日、左近衛少将に任官。
月日不詳、従四位下に昇叙し、左近衛少将如元。
月日不詳、還昇。
10月、左近衛中将に転任。
治承3年(1179年)1月19日、播磨権守を兼任。
3月11日、正四位下に昇叙し、左近衛中将・播磨権守如元。
10月7日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。
10月9日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。
10月21日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
11月17日、解官。
寿永2年(1183年)8月25日、権大納言に転任。
11月21日、摂政宣下。
藤氏長者宣下。
内大臣を兼任。
12月8日、従二位に昇叙し、摂政・内大臣・藤氏長者如元。
寿永3年(1184年)1月6日、正二位に昇叙し、摂政・内大臣・藤氏長者如元。
1月22日、摂政・藤氏長者・内大臣を辞任。
貞永元年(1232年)9月6日、出家。
法名:大心
嘉禎4年(1238年)10月4日、薨去。享年67
天王寺と号す。