松沢求策 (MATSUZAWA Kyusaku)
松沢 求策(まつざわ・きゅうさく、1855年 - 1887年6月25日)は、長野県安曇野市出身の自由民権家。
1855年(安政2年)
- 信濃国安曇郡等々力町村(塩の道 (日本)保高宿)に醤油醸造を業とした若松屋に生まれる。
1873年(明治6年)
- 安曇野最大の用水堰である拾ヶ堰の堰守となる。
この役職は地域の灌漑用水の管理・分配を一手に担うもので、本来は名主たちに受け継がれて来た名誉職であった。
1878年(明治11年)
- 松本新聞の主筆となり、新聞紙上に自由論を説く。
1880年(明治13年)
- 奨匡社を創立。
大阪の愛国社からの要請で国会願望有志大会に出席。
東筑摩郡松本市の青松寺にて奨匡社結社大会が開かれた。
南安曇郡選出の県会議員となる。
1881年(明治14年)
- 西園寺公望の『東洋自由新聞』の印刷長となる。
しかし、西園寺が職を辞して廃刊となる。
それに際し全国各地の民権家に檄文を送るが、大衆扇動の罪により逮捕され、懲役70日の刑を受ける。
出獄後、八丈島で事業を行う。
その後、長野県議会議員として活動。
1886年(明治19年)
- 代言人(弁護士)の試験問題漏洩事件に関与したとして逮捕される。
1887年(明治20年)
- 結核により獄中で病没。
辞世の句は「思ふ事 つくしてもはてず さそはれて かへらぬ旅に 心のこして」。