柴田紹安 (SHIBATA Shoan)
柴田 紹安(しばた しょうあん、生年不詳-天正14年)は安土桃山時代の武将。
本姓・橘。
遠江守。
剃髪して紹安と称した。
一族に柴田礼能がいる。
柴田氏は一族で大友氏に仕えていた国人・野津院衆(野津院は豊後国・大野郡。現在の臼杵市野津町)。
日向国・豊後国国境の朝日嶽城主。
耳川の戦いにより有力な臣下を多数失い、急速に衰退しつつある大友氏にあって、国境線の守りを任されると言うことは充分に抜擢であったのであろう。
しかし、彼はこれを左遷として恨み、機会をうかがっていた。
ちなみに、大友氏の支配構造であるが、当主の下に加伴衆という者6名(大友義鑑によれば同族衆より3名。他3名とする様にとある。が、守られていない。)を置く。
加伴衆は、当主の補佐を行い、複数名を以て当主の代行も行う。
また、概ね加伴衆には小領主がその任に就き、大領主に大きな発言権が行かないよう配慮されていた。
また、方分という者を置き、それぞれの方面の指揮を執らせたが、彼らには中央に対して発言権がない状態におかれた。
しかし、耳川の戦いにて多量の戦死(加伴衆からも3名)を出来、その後の騒動から加伴衆が十全に機能しない人数となっていた。
以上の理由から、加伴衆になれると思っていた者にとって、前線を任されると言うことは左遷にあたるのである。
(豊薩軍記巻7)によると、郎党の帆足市弥太に対し、次のようにある。
「豊後の柴田姓の頭は私である。」
「だが庶子である礼能が太守のご寵愛を良いことに我々を侮蔑している。」
「家紋にしても礼能は大友家の家紋を貰い、恣に振る舞っている。」
「我々は外様にされて口惜しいばかりだ。」
「この礼能への恨みは即ち当主への恨みである。」
「(云々で以下同心の者列記)。」
このようであるから、礼能への嫉妬も多分にあったようだ。
天正14年(1586年)、島津家久を大将とする軍が侵攻してくるとこれにすかさず内応し、麾下に加わった。
ところが、急に内応してきた紹安を島津家は疑い、本人は天連城(あまつらじょう)にその家族は星河城(ほしかわじょう)へと隔てた。
大友氏は紹安の謀反を知るとこれを誅するべくすぐさまに佐伯惟定を差し向け、星河城を囲んだ。
元々大友氏に背くことは紹安一人の意であった。
籠城をした者の中の芦別大膳と言う者が内応し、妻子・一族全てとらえられ、佐伯西正寺において自害させられた。
紹安は救援を出すことの無かった島津方を恨み、すぐに島津氏に背いたが、城中の兵は混乱。
籠城がうまく行く訳もなく、生涯を終えた。