栗野慎一郎 (KURINO Shinichiro)
栗野 慎一郎(くりの しんいちろう、嘉永4年11月7日 (旧暦)(1851年11月29日) - 昭和12年(1937年)11月15日)は明治、大正期の日本国の外交官。
来歴・人物
福岡藩槍術師範栗野小右衛門の長男として福岡県に生まれる。
藩校修猷館に学ぶ。
福岡藩第11代藩主黒田長溥の命により藩費留学生としてハーバード大学を卒業。
外務省に入省し、取調局長、政務局長、駐米公使、駐伊公使、駐仏公使を経て、20世紀初頭、駐露公使として日露戦争直前まで外交交渉に尽力。
1904年(明治37年)2月6日、小村寿太郎外務大臣 (日本)の命によりロシア政府に国交断絶の通告公文を提出した。
その後、フランス公使館が大使館に昇格した1906年(明治39年)に初代駐フランス大使に任ぜられ、翌1907年日仏協約を締結する。
1932年(昭和7年)枢密顧問官に就任。
1937年(昭和12年)勲一等旭日桐花大綬章受章。