桂岩院 (Keiganin)
桂岩院(けいがんいん、生年不詳 - 慶長9年(1604年)8月17日_(旧暦)、以下「四辻氏」と記す)は、安土桃山時代・江戸時代初期の女性。
上杉景勝の側室、上杉定勝の生母。
概要
四辻公遠の娘。
本名は不詳。
母は杉原氏(四辻家の女中か)。
兄弟に四辻季継、高倉嗣良(後年藪嗣良と改名)等、姉妹に後水尾天皇寵姫四辻与津子。
甥に山浦光則等、姪に文智女王、後水尾天皇寵姫四辻継子等がいる。
一説では上杉家に出入りする商人の斡旋により、京都で景勝に見初められて側室になったといわれているが、詳細な史料は存在せず、側室となった経緯は不明である。
側室として米沢に入って米沢城に居住して景勝に仕え、景勝の枕席に侍りその情を受け、景勝の子供を妊娠する。
景勝の伏見滞在中の慶長9年(1604年)5月に米沢城で庶子玉丸(定勝)を産んだ。
しかし、産後の経過が悪く景勝の命により快癒祈願や医師の治療など万策を尽くしたが効無く、玉丸出産から3ヵ月余り後、景勝の帰還を待たずして急死。
景勝はこの薄幸の愛妾が余りにも早く死んだことを嘆き、その葬儀を家老直江兼続管轄の下、上杉家菩提寺の林泉寺 (米沢市)で執り行った。
戒名は桂岩院殿月正清佳大姉。
墓所は始め米沢林泉寺、のちに寛永6年4月(1629年)景勝の菩提寺でもある米沢極楽寺に移葬。
以後米沢極楽寺は、上杉家藩主の側室の墓所に定められたという。
複雑な背景を持つ「影の女」
四辻氏自身、そして景勝が彼女を寵愛したことは上杉藩士からは好意や好感を持たれていなかったともいわれる。
四辻氏の米沢城入り直後に地震が起きたことを、景勝が正室の菊姫 (上杉景勝正室)を差し置いて側室である女を城内に入れたことへの天罰としたり、彼女があまりにも早く死んだ原因を菊姫の怨霊の祟りとする俗説もあるという。
この俗説に関しては、菊姫は政略結婚によって上杉家に嫁いだ女性にも関わらず、複数の史書に才色兼備を謳われている程、上杉家中一同の深い敬愛を集める存在であったと伝えられることから、四辻氏という女性の存在自体を認めたくない家臣などが少なからずいた可能性は否定できないとの説もある。
しかし、当時、世継ぎのいない大名家を幕府が次々と改易していた事実を考えると、四辻氏は世継ぎを得るために家臣たちの了解と勧めによって、側室として納れた女性であった可能性が高い。
「上杉家御年譜」によれば、定勝の誕生は直ちに当時景勝が滞在中であった伏見に伝えられ、伏見在中の家臣たちは悉く参賀し慶祝したと記録されている。
その後、上杉家と四辻家には、四辻氏の甥であるキリシタン公卿山浦光則の処遇を巡る幕府との軋轢などのトラブルもあった一方、景勝と四辻氏の孫にあたる三代藩主上杉綱勝は、継室として又従姉妹にあたる四辻公理の娘富姫を迎えている。