横浜一庵 (YOKOHAMA Ichian)
横浜 一庵(よこはま いちあん、天文 (元号)19年(1550年) - 文禄5年閏7月13日 (旧暦)(1596年9月5日))は、安土桃山時代の大名。
俗名は良慶。
室は藤堂高虎の6女。
豊臣秀長に仕え、大和国内で5万石を領した。
羽田長門守、小川下野守とともに三家老として内政を担当。
和歌山城の普請奉行を勤めた。
秀長の没後は、養子豊臣秀保に小堀正次とともに家老として仕えたが、文禄3年(1594年)4月、秀保がにわかに没して豊臣大納言家は断絶した。
その後は豊臣秀吉の直参となり、慶長元年(1596年)の慶長伏見地震で圧死した。
横浜茂勝は、息子といわれている。
郡山城 (大和国)本丸に属する「常盤曲輪」は、一庵がここに屋敷を与えられたので、「本丸法印曲輪」といわれていたが、江戸時代に柳沢氏が藩主になった時に改称された。
梅林門も一庵丸門と称したが、改名された。