橋本実麗 (HASHIMOTO Saneakira)
橋本 実麗(はしもと さねあきら、文化 (元号)6年10月26日 (旧暦)(1809年12月3日) - 明治15年(1882年)10月8日)は江戸時代後期から幕末の公家、公卿。
明治時代には伯爵に列する。
官位は正二位、任参議、大納言。
羽林家の橋本家当主。
父は橋本実久、母は橋本家女房。
子に橋本実梁、麗子、松子、夏子(明治天皇典侍)らがいる。
妹に橋本経子(仁孝天皇典侍、和宮親子内親王生母・観行院)がいる。
和宮親子内親王の叔父にあたる。
橋本実麗は、公武合体政策の一貫として、姪の和宮親子内親王が14代将軍・徳川家茂との婚姻対策が持ち上がった時には妹で和宮親子内親王の生母・観行院(橋本経子)とともに反対したが、度重なる江戸幕府の要求に和宮親子内親王が折れ、和宮親子内親王と徳川家茂との婚姻が成立。
その条件として、和宮親子内親王が江戸での生活に不測の事態が起きた場合には、京都より実麗を江戸に呼び寄せる事を条件とした五箇条を幕府に認めさせた。
実麗の末娘・夏子は明治天皇の側室となった。