橋本忍 (HASHIMOTO Shinobu)
橋本 忍(はしもと しのぶ、1918年4月18日-)は、昭和期の脚本家、映画監督。
男性。
兵庫県神崎郡 (兵庫県)鶴居村(現・神崎郡 (兵庫県)市川町鶴居)に生まれる。
脚本家の橋本信吾、橋本綾は実子。
経歴
中学校卒業後、1938年に応召したものの、粟粒性結核に罹り、療養生活に入る。
シナリオに興味を持ち、伊丹万作のもとに作品を送り、指導を受ける。
伊丹死去後、上京し、伊丹夫人より佐伯清監督を紹介される。
1949年、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。
伊丹死後、寡婦が伊丹の手元にあった橋本脚本を佐伯に渡し、黒澤明がそれを譲り受ける。
黒澤は『藪の中』の脚色作品に注目、黒澤の助言により芥川の同じ短編小説『羅生門 (小説)』も加えて完成。
この脚本を基に、翌1950年に黒澤が演出した映画『羅生門 (映画)』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビュー。
同作品はヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。
以後、黒澤組のシナリオ集団の一人として、小国英雄とともに『生きる (映画)』、『七人の侍』などの脚本を共同で執筆する。
しかし黒澤映画への参加は60年の『悪い奴ほどよく眠る』で終わっており、あとはその10年後に『どですかでん』で一度だけ復帰しているのみである。
この黒澤組からの離脱理由に「どんなに自分が黒澤映画へ貢献しても結局、黒澤監督一人の手柄となるから。」としている。
しかし、この離脱理由が負け惜しみとならないほど、その後、橋本は日本を代表する脚本家の一人として名声を高める事となる。
代表作に挙げられる『真昼の暗黒』、『張込み』、『ゼロの焦点』、『切腹』、『霧の旗』、『上意討ち』、『白い巨塔 (映画)』、『日本のいちばん長い日』、『日本沈没』などの大作の脚本を次々と手がけ、論理的で確固とした構成力が高い評価を得る。
1958年、KRT(現・東京放送)の芸術祭 (文化庁)参加ドラマ『私は貝になりたい』の脚本を手がける。
上官の命令で、米兵捕虜を刺殺しそこなった二等兵が、戦犯として死刑に処せられる悲劇を描いたこのドラマは、大好評となり、芸術祭賞を受賞した。
翌1959年自身が監督し映画化。
監督デビューも果たす。
しかし、作品中に登場する遺書が加藤哲太郎による『狂える戦犯死刑囚』のそれと酷似していたことから加藤に原案者としてのクレジットを入れるよう要求されるも、橋本は『週刊朝日』からの引用であると主張し拒否、その上次のように突き放したとされる。
「このまゝ沈黙して呉れるなら十万円を出します。」
「それは私のポケットマネーであって原作料ではない」
その後も、加藤に連絡なく再放送が行われたことから、加藤は刑事告訴状を東京地検に提出したが、起訴はされなかった。
1973年、これまで配給会社主導で行われていた映画制作の新しい可能性に挑戦するため、「橋本プロダクション」を設立。
松竹の野村芳太郎、東宝の森谷司郎、東京放送の大山勝美などが参加し、映画界に新風を吹き込んだ。
1974年、「橋本プロダクション」の第1作として、山田洋次との共同脚本で『砂の器』を製作。
原作者の松本清張に原作を上回る出来と言わしめる傑作で、興行的にも大成功をおさめ、その年の映画賞を総なめにした。
続いて1977年に、森谷司郎監督、高倉健主演で『八甲田山 (映画)』を発表し、当時の配給記録新記録を打ち立てる大ヒットとなった。
僅か3ヵ月後に松竹で公開された『八つ墓村 (1977年の映画)』(脚本担当)もこれに迫る数字をはじき出し、この年の橋本はまさに空前絶後の大ヒットメーカーぶりを示す。
但し「八つ墓村」は、合理的な謎解き映画として構成された東宝の金田一ものに比べてオカルティズムへの傾斜が顕著であり、橋本の作家的特質を如実に示している。
以後、1980年代まで、脚本執筆、映画制作と精力的に活動した。
しかし1982年、脚本だけでなく製作、原作、監督もこなした東宝創立50周年記念映画『幻の湖』がわずか1週間で興行打ち切りと言う憂き目にあう。
その後、二本の脚本を書いた後、体調不良もあり事実上引退した状態であった。
しかし、体調回復に伴い、2006年に黒澤明との関係を語った自著『複眼の映像 私と黒澤明』を発表。
そして、2008年に中居正広主演でリメイクされることになった劇場版『私は貝になりたい』で、自らの脚本をリライトすることになった。
2000年、故郷である兵庫県市川町に「橋本忍記念館」がオープンした。
競輪ファンとしても有名である。
ちなみに、暗い部屋で長年作業をしていた為、強い光に当たると眩暈がする職業病を持ち、番組出演でも配慮される。