橘逸勢 (TACHIBANA no Hayanari)
橘 逸勢(たちばな の はやなり、延暦元年(782年)? ~ 承和 (日本)9年8月13日 (旧暦)(842年9月24日))は、平安時代の書家・官人。
橘入居の末子、橘永継・橘永名の末弟。
嵯峨天皇皇后橘嘉智子のいとこでもある。
書に秀でており、空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されている。
子は橘達保ら。
経歴
804年、最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。
842年、恒貞親王を立てようと伴健岑と画策しているのが発覚し、逮捕された(承和の変)。
両者は杖で打たれ続ける拷問を受けた後、健岑は隠岐国へ流罪(後に出雲国に移されたが詳細は不詳)、逸勢は伊豆国へ流罪になった。
しかし逸勢は伊豆への護送途中に、遠江国板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した60余歳という。
このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。
その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。
死後、逸勢は罪を許されて853年には従四位下を賜っている。
その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛された、と文徳実録に記載がある。
ただし、嗣子の達保に関する記述はない(系譜によると、逸勢の系統は孫の橘保昌、曾孫の橘直幹までの名が記されている)。
菅原道真、文屋宮田麻呂、早良親王、伊豫親王などの「八所御霊」と呼ばれる人々と共に祀られている。
書家として
在唐中、書道は柳宗元に学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。
逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わっていない。
その中で、空海の三十帖策子の一部分、興福寺銅灯台銘、伊都内親王願文が逸勢の筆とされているが確証はない。
ただ逸勢以外の書家からその書風を見出すことができないので、逸勢の筆と推定されている。
伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)
桓武天皇の第8皇女伊都内親王が、生母藤原平子の遺言により、天長10年(833年)9月21日、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進されたときの願文である。
楮紙に行書体で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。
朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。
書風は王羲之風であるが、その中に唐人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大である。
御物。