歌川広重 (UTAGAWA Hiroshige)
歌川 広重(うたがわ ひろしげ、寛政9年(1797年) - 安政5年9月6日 (旧暦)(1858年10月12日)は、浮世絵師。
江戸の町火消しの安藤家に生まれ家督を継ぎ、その後に浮世絵師となった。
しかし、現代広く呼ばれる安藤広重(あんどう ひろしげ)なる名前は使用しておらず、浮世絵師としては歌川広重が正しいと言える。
略歴
広重は、江戸の下級武士・八代洲河岸火消屋敷の同心、安藤源右衛門の子として誕生。
幼名徳太郎、のち重右衛門また徳兵衛とも称す。
幼い頃から絵心が勝り、文化 (元号)8年(1811年)(15歳)頃、はじめ初代歌川豊国の門に入ろうとしたが、門生満員でことわられた。
そして歌川豊廣(1773年?-1828年)に入門、翌文化9年(1812年)に歌川廣重の名を与えられた。
11年後の文政6年(1823年)には、家業の火消同心を辞め、絵師を専門の職業にした。
天保元年(1830年)一幽斎廣重と改め、花鳥を描いていたが、文政11年(1828年)師の豊廣の死の後は風景画を主に制作した。
天保3年 (1832年)、一立齋(いちりゅうさい)と号を改めた。
安政5年没。
享年62。
友人歌川国貞の筆になる「死に絵」(=追悼ポートレートのようなもの。本項の画像参照)に辞世の歌が遺る。
東路へ筆をのこして旅のそら 西のみ国の名ところを見ん
「西方浄土の名所を見てまわりたい」と詠っている。
死因はコレラだったと伝えられる。
ヒロシゲブルー
歌川広重の作品は、ヨーロッパやアメリカ合衆国では、大胆な構図などとともに、青色、特に藍色の美しさで評価が高い。
この鮮やかな青は藍(インディゴ)の色であり、欧米では「ジャパンブルー」、あるいはフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて「ヒロシゲブルー」とも呼ばれる。
ヒロシゲブルーは、19世紀後半のフランスに発した印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響をあたえたとされ、当時ジャポニスムの流行を生んだ要因のひとつともされている。
東海道往復旅行
天保3年(1832年)秋、広重は幕府の行列(御馬進献の使)に加わって上洛(京都まで東海道往復の旅)する機会を得たとされる。
天保4年(1833年)には傑作といわれる『東海道五十三次絵』が生まれた。
この作品は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々があこがれた外の世界を垣間見る手段としても、大変好評を博した。
なお、つてを頼って幕府の行列に加えてもらったとの伝承が伝わるが、実際には旅行をしていないのではないかという説もある。
また、司馬江漢の洋画を換骨奪胎して制作したという説もある。
甲州日記
江戸時代中期には生産力の向上から都市部では学問や遊芸、祭礼・年中行事など町人文化が活性化した。
幕府直轄領時代の甲斐国甲府城下町(山梨県甲府市)でも江戸後期には華麗な幕絵を飾った盛大な甲府道祖神祭りが行われていた。
甲府商人の経済力を背景に江戸から広重ら著名な絵師が招かれて幕絵製作を行っている。
広重は天保12年(1841年)に甲府緑町一丁目(現若松町)の町人から幕絵製作を依頼され、同年4月には江戸を立ち甲州街道を経て甲府へ向かい、幕絵製作のため滞在している。
この時の記録が『甲州日記』(「天保十二年丑年卯月日々の記」)で、江戸から旅した際に道中や滞在中の写生や日記を書き付けられている。
現在の八王子市から見た高尾山、甲府市内から見た富士山や市内の甲斐善光寺、身延町の富士川など甲州の名所が太さの異なる筆と墨で描かれている。
広重の作品研究に利用されているほか、甲府での芝居見物や接待された料理屋の記録など、近世甲府城下町の実態を知る記録資料としても重視されている。
日記によれば広重は同年4月5日に甲府へ到着し、滞在中は甲府町民から歓迎され句会や芝居見物などを行っている。
日記は一時中断して11月からはじまっており、この間には暮絵は完成した。
手付金は5両であったという。
幕絵は東海道の名所を描いた39枚の作品で、甲府柳町に飾られたという。
日記の中断期間中は幕絵制作に専念していた可能性や、制作のためにいったん江戸で戻っていた可能性などが考えられている。
広重の製作した幕絵は現存しているものが少ないが、山梨県立博物館には2枚の幕絵が所蔵されており、甲府市の旧家には下絵が現存している。
また、幕絵以外にも甲府町人から依頼された屏風絵や襖絵などを手がけており、甲府商家の大木コレクション(山梨県立博物館所蔵)には作品の一部が残されている。
日記は甲府滞在記録のほか甲斐名所のスケッチも記されており、一部は『不二三十六景』において活かされている。
『甲斐志料集成』などに収録され知られていたが、原本は関東大震災で焼失している。
発見された写生帳は和紙19枚を綴じたもので、縦19.6cm横13.1cm。
3代広重が1894年に(明治27年)死去した直後の海外に流出したとされる。
1925年にイギリス人研究家エドワード・ストレンジが著書で紹介して以来、行方不明であった。
2005年にロンドンのオークションでアメリカ合衆国国民が落札、栃木県那珂川町 (栃木県)馬頭広重美術館の学芸員が本物と鑑定した。
約80年ぶりに発見されたのである(2006年9月5日付朝日新聞)。
肉筆画も達人
その後、嘉永(1848年)頃から単に立斎と称している。
版画が盛んになって、浮世絵師が版画家になってからは、彩筆をとって紙や絹に立派に書き上げることの出来るものが少なくなったが、広重は版画とはまた趣の違った素晴らしい絵を残している。
なお、遠近法は印象派画家、特にフィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)に影響を与えたことで良く知られているが、もともと西洋絵画から浮世絵師が取り入れた様式であり、先人としては葛飾北斎や、歌川の始祖歌川豊春(1735年-1814年)の浮絵にみられる。
江戸での住居
文久年間(1861年から1863年)の「江戸日本橋南之絵図」によると、日本橋大鋸(おおが)町(現在の京橋)に広重の住居があり、西隣には狩野永徳の旧居が印刷されている。
その後、京橋よりに道路5つほど先の、常磐町に移転したようである。
辞世の句
辞世の句は、東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西のみくにの名所を見む であるというが、のちの人の作ではないかという見解もある。
明治15年(1882年)4月(広重の死後24年目)、門人たちが、墨江須崎村の秋葉神社に碑を建立したが、第二次世界大戦の東京大空襲により破壊され、現在は残っていない。
墓所
流行の疫病(コレラ)により安政5年(1858年)9月6日65歳で没。
墓所は禅宗東岳寺。
作品の一覧
『東海道五十三次』、 錦絵 55枚 (53の宿場と江戸と京都)
『金澤の月夜』、『阿波の鳴門』、『木曾雪景』、それぞれ大錦3枚続
『金澤八景』、 8枚
『京都名所』、『浪花名所』、それぞれ 10枚揃物
『近江八景』
『江戸近郊八景』
『東都名所』
『富士三十六景』
『六十餘州名所圖會』、 70枚揃
『木曾街道六十九次』、 揃物
『甲陽猿橋』、『富士川雪景』 それぞれ竪2枚継掛物仕立
『名所江戸百景』、 竪大判 118枚の揃物(後に四季の表紙1枚あり)
『絵本江戸土産』、 挿絵
所蔵美術館
各所で所蔵されるが、光線による劣化があるため常時展示はしていないことが多い。
日本国内では、次の博物館、美術館に所蔵されている。
東京国立博物館(東京都台東区)
馬頭広重美術館(栃木県那珂川町)
神奈川県立歴史博物館(神奈川県横浜市)
中山道広重美術館(岐阜県恵那市)
東海道広重美術館(静岡県静岡市)
広重美術館(山形県天童市)
海の見える杜美術館(広島県廿日市市)
国外では次の美術館に作品がある。
メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
ボストン美術館(アメリカ合衆国、ボストン)
ブルックリン美術館(アメリカ合衆国、ニューヨーク)
ギメ東洋美術館(フランス共和国、パリ)
広重の襲名者たち
藤懸静也によると、二代目廣重は広重の門人で俗称を森田鎮平と云い、号を宣重という。
初代の養女お辰(16歳)と結婚したが、のち慶応元年(1865年)妻22歳の時、離縁となっている。
その後、しばしば横浜市に出向いて絵を売り込み、外国貿易が次第に盛んになっている時期「茶箱廣重」の名で外国人に知られた。
また、「喜齋立祥」の画号を用いて制作したがその中で、花を主題にした一種の景色画、『三十六花撰』の出来栄えがよく、版元の求めに応じ、大錦判の竪繪に作った。
なお、『名所江戸百景』のなかの「赤坂桐畑雨中夕けい」で秀逸な絵を残しており、初代の「赤坂桐畑」よりも構図、色彩ともに評価が高い。
三代目は門人の重政(1845年-1894年)で俗称は後藤寅吉である。
離縁後のお辰を妻とした。
号は一笑齋。
四代目(菊地喜一郎)は、三代目夫人お辰と清水清風らが相談して、四代目広重を襲名させた。
菊地家は安藤家と親しかったためである。
最初は版画を制作し、武者絵などを多く書いたが、後に書家となった。
喜一郎は浮世絵に関する著作を出版している。