武田信賢 (TAKEDA Nobukata)
武田 信賢(たけだ のぶかた、応永27年(1420年) - 文明 (日本)3年6月2日 (旧暦)(1471年6月20日))は室町時代の守護大名、武田氏若狭武田氏の第2代当主である。
武田氏安芸武田氏の武田信繁 (室町時代)の次男、母は武田信栄の娘。
兄に武田信栄。
家系には異説あり。
名は彦太郎。
兄の信栄に従い、6代将軍足利義教の命による一色義貫暗殺の際には行動を共にしたという。
永享12年(1440年)、兄の信栄が病死したため家督を継いだ。
翌嘉吉元年6月24日 (旧暦)(1441年)の嘉吉の乱で、義教が家臣の赤松満祐に暗殺されると、信賢は幕命に従い赤松氏討伐軍に従軍する。
この間隙に、若狭国では一色氏の残党などによる一揆が発生したため、軍を若狭に返して一揆鎮圧に当たったという。
その後も一色氏の残党による一揆が頻繁に発生し、信賢がこれに大いに悩まされ、徳政令を出したこともあった。
応仁元年(1467年)から勃発した応仁の乱では、細川勝元率いる東軍に属して西軍の一色氏と戦った。
また上洛して、京都においても西軍の山名軍と戦っている。
応仁3年(1469年)4月には丹後国に攻め入って一色義直を圧迫したが、1471年6月2日 (旧暦)、病のために死去、享年51。