武田元信 (TAKEDA Motonobu)
武田 元信(たけだ もとのぶ 康正元年(1455年) - 大永元年12月3日 (旧暦)(1521年12月31日))は武田氏若狭武田氏の第5代当主。
若狭国の守護大名。
武田国信の子。
武田元光の父。
通称は彦次郎。
官位は治部少輔、後に従三位・大膳大夫。
武人でありながら、伊勢物語や和歌などの貴族文化に精通した、当時第一級の文化人。
事蹟
若狭武田家は、代々管領細川氏との関係が深かった。
名前の元信は、管領家の通字の偏諱であり、細川勝元の「元」と武田家の通字「信」から成る。
応仁の乱で東軍に組し、のちに丹後国の守護にも任命され西軍の一色氏の征伐を命ぜられたが苦戦し、逆に若狭に攻め込まれることも多かった。
元信は次男だったが、兄の武田信親が早世したため、父の国信により後継者とされた。
元信は家督継承してまもなく明応の政変に遭遇するが、それ以降も細川京兆家とのつながりを更に深め、若狭武田家を大繁栄させた。
しかし、宿敵である丹後国一色氏との対立は一進一退の状況が続き、一色氏の若狭侵攻の際には越前国朝倉氏の援軍により、ようやくこれを撃退している。
また、領内で起きた土一揆などにも苦しめられなど、その体制は必ずしも磐石ではなかった。
1519年、家督を子の元光に譲り出家した。
大永元年(1521年)10月4日、元信は禁裏御所北門の修理費5000疋を朝廷に献上し、その功労により同月22日に守護大名(隠居後)としては異例の従三位に昇叙した。
和歌や故実などの公家文化に通じ、戦乱により衰退していた芸能文化面の再興に大きく貢献した。
家臣の粟屋氏ともども、京都の貴紳三条西実隆との親密な交流が知られる。
国の重要文化財に指定された『実隆公記』には、元信が藤原定家自筆の『伊勢物語』を所持していたことが記されている。
また元信自身も、定家の伊勢物語や家集を書写したと伝わる。
遺墨は少なく貴重である。