武田斐三郎 (TAKEDA Ayasaburo)
武田 斐三郎(たけだ あやさぶろう、文政10年9月15日 (旧暦)(1827年11月4日) - 明治13年(1880年)1月28日)は伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)出身の学者である。
名は成章。
斐三郎は通称。
竹塘と号す。
緒方洪庵の適塾で蘭学を学び江戸で佐久間象山から洋式兵術を修業。
箱館戦争の舞台として知られる日本初の洋式城郭「五稜郭」の立案・設計など異能を発揮。
日本初のストーブを考案した事でも知られる。
来歴
斐三郎は大洲城と肱川をはさんだ対岸にある中村で生まれた。
17歳まで洟(はな)を垂れて母親に甘えていたので、兄の敬孝(孝明天皇に仕え、西郷隆盛に、敬孝がいなければ維新は成らなかったと言わしめた)と比較されて「あやバカ」とあだ名された。
ロシアのプーチャーチンとの交渉に箕作阮甫に従って山陽道を上るときも、母親に会いに大洲へ帰っている。
後に会談したペリーは、彼の人物と学識をほめたたえている。
慶應義塾よりも早く函館に学校を作り、生徒たちを連れて亀田丸を操船してロシアの黒竜江に日本初の修学旅行に出かけたこともある。
榎本武揚や前島密なども彼に学んだ。
(榎本は斐三郎が建てた五稜郭に立てこもった)。
斐三郎はやがて明治政府に呼ばれ、日本軍の鉄砲製造などを含め科学方面の指導者となる。
教え子たちに慕われて、東京芝の東照宮分社前の参道脇に碑が建てられている。
右上の斐三郎の彫像は本人の写真をもとに製作されたものである(写真好きで、現存しないと言われる西郷隆盛の写真まであった)。
この彫像の顔が光っているのは、五稜郭を訪ねる人々の間で、触ると頭がよくなるといううわさが広まり、なでまわされるからである。
大洲市中村に20年前まで生家があった。
しかし、古くなり大洲市教育委員会にたずねたところ、壊してもよいという返事だった。
修理して保存すべきだった。