永田徳本 (NAGATA Tokuhon)
永田 徳本(ながた とくほん、1513年(永正10年) - 1630年3月27日(寛永7年2月14日 (旧暦)))は、戦国時代 (日本)後期から江戸時代初期にかけての医師。
「甲斐の徳本」などとも呼ばれ、また「十六文先生」や「医聖」とも称された。
号は知足斎、乾室など。
諸国を巡り、安価で医療活動を行ったといわれる放浪の医者。
略歴
戦国時代中期の1513年、三河国で生まれたという(甲斐国谷村など、異説もある)。
その後、陸奥国で仏門に入り、出羽国(鹿島ともいう)で修験道を学び、また田代三喜、玉鼎らより李朱医学(当時の明からもたらされた漢方医学)を修めた、信濃国・甲斐国に移り住み、国主であった戦国大名武田信虎・武田信玄父子二代の侍医となったと言われる。
信濃国・甲斐国に移り住み、国主であった戦国大名武田信虎・武田信玄父子二代の侍医となったと言われる。
武田信虎の領国追放後は信濃国諏訪に住み、武田氏滅亡後は東海・関東諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったとされる。
伝承に拠れば彼は首から薬袋を提げ、牛の背に横になって諸国を巡り、どんな治療を行っても報酬として16文(18文ともいう)以上の金額を受け取らなかったと伝わり、「十六文先生」とも称されたらしい。
本草学にも通じ、103歳の頃に甲斐におけるブドウ栽培法の改良(ぶどうの棚架け法)も行ったとする伝説もある(参考「甲州 (葡萄)」)。
江戸時代に入ったのち、征夷大将軍徳川秀忠の病を治癒し、その際も報酬を受けずに立ち去ったと言われるなど、その人生は謎と伝説に包まれている。
1630年に死亡。
享年は118。
記録が正確ならば当時としては驚異的な長寿である。
晩年は現在の長野県岡谷に居住したと伝えられ、同地に墓碑が存在する。
著書に『梅花無尽蔵』、『徳本翁十九方』などがある。
関連する逸話
現代の日本の製薬会社「トクホン」の社名は、(直接の所縁はないが)この永田徳本にちなんで命名されたものである。
岡谷に残る墓碑はいぼ取りの神様と呼ばれ、小石で墓石を叩くといぼ取りに効果があるとされた。
故に墓碑はボコボコになっている。
一時、友人林信時の子である、若き日の林羅山を弟子としていたが、羅山の非凡なるを視て他の職に進むように勧めたとされる。
三河出生説に拠れば、源義朝を討ちとった長田親政の子孫である長田重元の弟とされる。
つまり先述の秀忠重病時の秀忠側近(書院番)であった永井直勝(重元の息子。改姓)の叔父に当たる。