沖田総司 (OKITA Soji)
沖田 総司(おきた そうじ、天保13年(1842年)又は15年(1844年)夏の日 - 慶応4年5月30日 (旧暦)(1868年7月19日))(生年については2つの説があり、どちらも決定的な否定史料が見つかっていない。また、生誕時の月日に関しては特定できる史料が一切出ておらず、夏であったということしか分かっていない)は、江戸時代後期、幕末の新選組の隊士。
副長助勤、一番隊組長、剣術師範。
本姓は藤原を称した。
諱は春政、後に房良に。
幼名は宗次郎。
父は陸奥国白河藩士の沖田勝次郎で長男。
2人の姉がおり、沖田家は姉の沖田みつが婿の沖田林太郎を迎えて相続させる。
みつの曾孫の沖田哲也(1930年 -)は行政学者で明治大学政経学部名誉教授。
生涯
江戸、白河藩屋敷(東京都港区)で生まれる。
父の勝次郎は4歳のときに死去し、母とも死別したとされる。
9歳頃に、江戸市谷に天然理心流の道場を開く近藤周三の内弟子となり、試衛館にて後に新選組結成の中核となる近藤勇、土方歳三らと同門になる。
若くして天然理心流塾頭を務める。
沖田は無類の天才剣士であったと言われるが、江戸の頃の教え方はかなり荒っぽいものであったらしい。
後年になると穏やかな教え方へと変化した。
文久3年(1863年)の浪士組結成に参加して上洛、分裂後は近藤らに従い残留し、新選組を結成する。
沖田の一番隊は常に重要な任務をこなし、剣豪ひしめく新選組の中でも一、二を争う程多くの人を斬ったと言われ、この時期では9月の芹沢鴨暗殺、内山彦次郎暗殺など手がけた。
沖田が人を斬ったことを記す初めての記録は文久3年3月24日 (旧暦)の夜。
清河八郎の呼びかけに集まった浪士組の一番組に在籍していた殿内義雄だった。
元治元年(1864年)6月5日 (旧暦)の池田屋事件で、討幕派数人を切り伏せ活躍したものの、直後に肺結核により喀血して倒れる(諸説あり)とされていたが、その後の新選組史において依然として活躍していることから、この日に肺結核が発症したとは考えにくい。
そのため熱中病により倒れたとの説もある。
慶応元年(1865年)2月、総長の山南敬助が脱走した事件では、追っ手として差し向けられ近江国草津市で捕らえる。
山南は沖田の介錯で切腹した。
沖田は山南を兄のように慕っていたとされるが、故郷への手紙では山南の死に関して軽く触れるに留められている。
第一線で活躍することがなくなるのは慶応3年(1867年)以降で、鳥羽伏見の戦いは参戦できず大阪に護送される。
(現在は、鳥羽伏見の戦いに向かう間に負傷し、大阪に護送される船中において肺結核を患ったとする説が有力である。)
鳥羽伏見の敗戦後、隊士と共に海路江戸へ戻り、甲陽鎮撫隊に参加する(諸説あり)も中途での落伍を余儀なくされる。
以後は幕臣の松本良順により千駄ヶ谷の植木屋に匿われたとされ、慶応4年(1868年)に死去。
生年が明確で無いため享年については諸説あり、25~27と考えられている。
慶応3年12月18日 (旧暦)、沖田が療養のため滞在していた近藤の妾宅を、元御陵衛士・阿部十郎、佐原太郎、内海次郎の3人が襲撃した。
前月に彼らの指導的立場であった伊東甲子太郎を殺害した新選組への報復として狙われたものだが、沖田は伏見奉行所へと出立した後で難を逃れた。
同日夕刻、阿部らは二条城から戻る途中の近藤勇を銃撃、負傷させている。
近藤勇斬首から2ヶ月後、近藤勇の死も知らずに亡くなった。
辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」とされる。
墓所は、東京都港区元麻布三、専称寺ほか。
専称寺による戒名は「賢光院仁誉明道居士」。
また、沖田家累代墓碑には天然理心流の他、北辰一刀流の免許皆伝を得ていた旨も記されている。
なお、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。
また、終焉地も千駄ヶ谷のほか、今戸(台東区)説もあるが、現在では、今戸に一時逗留した後に千駄ヶ谷に移り、そこで亡くなったとする説が有力である。
人物像
佐久間象山の息子三浦啓之助がある隊士にからかわれた。
後日、土方と沖田が碁を打っている側で三浦をからかった隊士を三浦が背後から斬りつけると、沖田は三浦が後ろから斬りつけた卑怯さに激怒し「この馬鹿野郎」と叫び三浦の襟首を引っつかんで頭を畳に押し付け引きずり回し、三浦は鼻の皮を真っ赤にすりむいたという話が伝わっている。
凄腕の一番組長としての顔とは裏腹に、当の本人はいつも冗談を言っては笑っていた陽気な人物であったようだ。
屯所界隈の子供達ともよく遊んであげていたようである。
作家の司馬遼太郎は新選組を題材とした作品を執筆する際、幼い頃に沖田に遊んでもらったという老婆を取材している。
(取材が1960年前後とすると、明治維新が1868年なので、かなり高齢ではあるものの実際の沖田総司を目にした人々が生きていたことになる。)
近藤・土方など新選組についての酷評で知られる西村兼文ですら、山南敬助と並び沖田についても批判を残していない。
これは西村が山南と沖田には悪意を持っていなかったことの表われと見られ、従って沖田は新選組に表立って敵対した者以外には人当たりの良い好人物であったと考えられている。
死の際には、植木屋の庭に現れる黒猫を斬ろうとして幾度となく失敗し、己の衰えを痛感した沖田は以下のようにと嘆いていたという。
「ああ、斬れない。」
「婆さん(付添いの老婆)、俺は斬れないよ」(ただし、この話は子母沢寛による創作であると言われる)。
死の間際まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣う言葉を幾度となく口にしたとも伝えられている。
近藤の死に関して周囲の者は固く口止めされていたため、沖田は近藤の死を知らずにこの世を去ったのである。
これに先立って、甲陽鎮撫隊が出陣する際に近藤が沖田を見舞うと、普段は明るい沖田がこのときだけは声を上げて泣いたという。
一般に近藤、土方、沖田の3人が非常に親しく、特に土方と沖田は兄弟のような関係であったと思われているが、これも司馬遼太郎、子母澤寛の創作によるところが多い。
土方と沖田が特別親しかったことを示す資料自体は存在しないが、沖田が土方の手紙の執筆代理をした記録が残っている。
新撰組と敵対していた阿部十郎のからは「近藤の高弟の沖田総司、大石鍬次郎という者はまことに残酷な人間でございまして、もとより国家朝廷のあるを知らぬようなもので」(『史談会速記録』)と、岡田以蔵などと同様に思想的背景を持たない“人殺しの道具”として非難されている
また、沖田に剣技を教えられてた人には「荒っぽくて、すぐ怒る」というような性格で、師範の近藤より恐れられていた。
他に「刀で斬るな!体で斬れ!」と教えていた等の言い伝えもあり、その他の記録などを見ても記録にある素顔の沖田は巷に広がる優しく大人しいといったイメージとはずいぶん異なる。
剣技
沖田の剣技で有名なのが「三段突き」である。
天然理心流の平正眼(天然理心流は「平晴眼」と書く)の構えから踏み込みの足音が一度しか鳴らないのに、その間に3発の突きを繰り出したという。
即ち目にも止まらぬ速さで、相手は一突きもらったと思った瞬間、既に三度突かれていたとする描写が小説などに多数見られる。
実際の詳細は不明。
『新選組遺聞』における佐藤宣の談話によれば、沖田の剣術の形は師匠の近藤そっくりで、掛け声までがよく似た細い甲高い声であったという。
ただ、太刀先がやや下がり気味で前のめりの、近藤(腹を少し突き出し気味の平正眼)とやや異なる構えを取る癖があったとされる。
沖田の剣については、永倉新八が「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。
恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」(『永倉新八遺談』)と語ったことが知られているが、新選組内部以外からの声もある。
小島鹿之助は新選組結成前(文久2年(1862年)7月)に「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」(『小島日記』)と述べているし、新選組に批判的な西村兼文は「近藤秘蔵の部下にして、隊中第一等の剣客なり」「天才的剣法者」(『壬生浪士始末記』)と述べている。
さらに新選組と敵対した阿部十郎は「沖田総司、是がマァ、近藤の一弟子でなかなか能くつかいました」「沖田総司、大石鍬次郎という若者は、ただ腕が利くだけで、剣術などはよくつかいました」「大石鍬次郎、沖田総司、井上、是らは無闇に人を斬殺致しますので」(『史談会速記録』)など、殊に敵に回した場合に筆頭の脅威となる剣客であったことが伺える。
ちなみに千葉弥一郎(新徴組隊士で、沖田の義兄と同僚)の言葉に「われわれからみたらやっと目録(低い段位)くらいの腕前」と、唯一の否定的見解が見られる。
勿論、北辰一刀流免許皆伝の山南や目録の藤堂を子供扱いというのはさすがに永倉の言い過ぎであろうが、それだけ彼の剣技が凄まじかったということなのだろう。
沖田の刀
小説などにおいて、沖田総司の所有する刀として「菊一文字則宗」の名が挙げられる。
これは子母澤寛などの伝記により「沖田の刀は“菊一文字細身のつくり”」とされていたことから司馬遼太郎が著作『新撰組血風録』の中で創作した物語が広まったものである。
しかし則宗作の刀は、日本刀が常用されていた当時でさえ非常に貴重な古刀であり、経済的にも実戦で多用する必要性からも沖田が所有した可能性はほとんど無いと推察され、研究者の間で取り上げられることはまず無い。
現在では沖田が所有した実際の刀で確認されているのは「加州清光」「大和守安定」とされている。
あるいは、則宗以外にも幾つか存在した“菊に一”の紋を打った細身の刀の1つではないかとする説もある。
いずれにせよ他の隊士と同様、在京中に何度か刀を交換した可能性も高い。
美少年
作家司馬遼太郎の作品以降、沖田は小説・ドラマなど創作世界においては頻繁に美少年として描かれてきた。
沖田の容貌に関して、現在残っている沖田の肖像画は、沖田の姉のミツが孫、要氏を「総司にどこか似ている」と称したことから、昭和4年(1929年)に書かれたものである。
八木家の者や新選組に関わった人物の証言では、「美少年であった」とは書き残してはおらず、容姿に関する記述としては、「ヒラメ顔で笑うと愛嬌があり色黒」、「肩の張り上がった」、「猫背」「長身」と書かれたものが残っている。
(『竜馬におまかせ!』『月明星稀 - さよなら新選組』ではこの説に近い設定となっている。)
この記述から浮かび上がる人物像として、美少年説に疑義を唱える指摘もある。
剣技の強さが伝承されながら労咳により夭逝してしまうというドラマ性に富むその生涯から、そのドラマ性をさらに演出する要素として司馬遼太郎は小説『燃えよ剣』をはじめ、その流れを汲んだ『幕末純情伝 (映画)』(美少女として描かれている)など多数の作品において沖田を美少年として描いた。
沖田が美少年であるというイメージは、“剣にめっぽう強い上に明るい性格、その反面、病弱で色白の美少年”として演出されたイメージが一般的に定着した結果の誤解とも思われる。
また、多数の映画など映像メディアにおいても常に若手二枚目俳優の役どころであった影響も大きいと考えられる。
しかし「総司=ヒラメ顔」説は、佐藤彦五郎のひ孫が、テレビで谷春雄の話に軽くノってつい口走ってしまったのが始まりらしいのだが、谷は「総司がヒラメ顔」というのは“のっぺらぼうという意味ではなくて、一族や兄弟の写真がみな目の間隔が寄っているから”と話している。
ちなみに沖田哲也はこの説を完全に否定している。
彼によれば、沖田家では総司の容姿について「色の白い、小さい男だった」という風に伝わっているという。
容貌・写真などについては、外部リンクも参照のこと。
沖田総司の恋
創作の世界で沖田は、司馬遼太郎の小説以降、一般に純情な青年として描かれることが多かった。
町医者の娘とプラトニックな恋愛をするなどの描き方がほとんどで、実際に沖田の周囲では近藤や土方などのように花柳界の女性の影は見えない。
ただ、井上松五郎の文久3年(1863年)4月22日付の日記によると、土方、松五郎、井上源三郎と共に沖田が新町の廓九軒町吉田屋にて天神(遊女)を買うという記述が見られる為、必ずしも女遊びをしなかったというわけではないようだが自分が好意を持っている女性の話になるととても真面目だったという。
また壬生光縁寺には過去帳に「沖田氏縁者」と書かれた女性の記録があり、これが沖田の恋人ではないかとも言われている。
研究者によるとこの女性は石井秩という未亡人で、連れ子(娘)が1人居たという。
沖田はこの女性との間に1女をもうけ、キョウという名を付けたという話もあるが、決め手に欠けるとも言われる。
なお、新選組にはもう1人「沖田承之進」(慶応元年4月、土方らが江戸で募集した隊士の1人)という沖田姓の隊士が居り、過去帳の「沖田氏」は承之進の方では無いか、との説もある。
さらに、試衛館で手伝いをしていた女性(気が強い男勝りな性格だったようだ)に「結婚してくれ」と告白され、「修行中の身ですので」と断ったという逸話も残っている(その女性は断られたショックでか自殺未遂を起こし、その後近藤の口利きにより他家に嫁いだようだ)。
この女性は近藤周平の許婚であったと言われる岩田コウという説もある。
また、油小路にあった旅館里茂の娘・キンとは馴染であったと言われている。
発病時期
沖田総司といえば、創作作品において必ずといって良いほど池田屋での戦闘中に激しく喀血し、倒れ込む。
しかし現在は上述の通り、研究者の間ではこの説は取られていない。
同事件で沖田が喀血したと明記するのは『新選組始末記』(子母澤寛)のみで、沖田は事後の長州残党狩り(明保野亭事件参照)にも参加しているし、翌月の禁門の変にも近藤勇・土方歳三・武田観柳斎・永倉新八と共に出動していた記録(『甲子戦争記』西村兼文)があり、喀血するほど結核が進行していたら、無理を強いて出動させるとは思えないのがその理由である。
一方、慶応2年(1866年)頃、幕府典医松本良順が新選組を集団検診した際に「肺結核の者が1名居た」と記しており、これが沖田総司ではないかとする説もある。
慶応3年(1867年)には周囲が認識し得るほど発病していた模様で、2月頃罹病したとする『両雄実録』(小島鹿之助)、不動堂村へ屯所を移転した9月頃に大病を患ったとする『壬生浪士始末記』(西村兼文)、さらに10月13日付で小島鹿之助が近藤へ送った書簡にも沖田の異常を気遣う文面が見られる。
以上から、沖田が戦闘に耐えがたいほど重篤な状態に陥ったのは、慶応3年秋~冬頃であったと思われる。
また病状の進行を速めたのは稽古の激しい運動の為、肺に負担をかけたせいもあるとの仮説もある。
なお、『新選組始末記』をはじめとする池田屋喀血・昏倒シーンの元となったのは永倉新八の『新選組顛末記』と考えられるが、こちらには吐血・喀血の文字こそ見られないものの沖田が昏倒したことが記されている。
初夏の蒸し暑い異常な高温下での激しい戦闘によって一時的に軽度の熱中症を起こした等、少なくとも近藤や永倉など周囲の者には肺の方の異常は感じさせない状態であったと考えられている。