河野通清 (KONO Michikiyo)

河野 通清(こうの みちきよ、生年未詳 - 治承5年2月12日 (旧暦)(1181年2月27日))は、平安時代末期の伊予国の武将。
父は河野親清。
母は河野親経の娘。
官位は伊予権介。
子に河野通信がいる。

平安時代末期に伊予を支配した豪族である。
出生時に母親が三島明神に参拝して祈願した直後に身ごもったことから、神に通じた息子とされた。
以後の河野氏は当主が代々、「通」の字を用いることが先例となったと伝わる。
平治の乱のとき、源氏側に味方したため、平清盛から河野郷以外の所領を全て没収され、清盛を恨んでいた。
このため治承4年(1180年)8月に源頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、通清も挙兵して平家の平維盛の目代を討ち、伊予を完全に支配圏に置いた。

しかし治承5年(1181年)、平氏方の田口成良と奴可西寂が伊予に攻め寄せてくる。
通清は伊予国風早郡高縄山城(愛媛県北条市)に立て籠もって抵抗したが、味方から裏切り者が出て大敗した。
最後は城から打って出て壮烈な戦死を遂げた。

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