波多野秀治 (HATANO Hideharu)

波多野 秀治(はたの ひではる)は、丹波国の戦国大名。
波多野氏最後の当主である。

生涯

天文10年(1541年)、波多野晴通の子として生まれる。
晴通は波多野氏本家の当主であり、秀治はその後を相続したはずと考えられるのだが、なぜか一族の伯父である波多野元秀の養子となった上で家督を継いでいる。

波多野氏は秀治の祖父・波多野稙通の死後から三好長慶に服属していたため、秀治は最初は三好氏の家臣であった。
そのためか、正親町天皇の即位式のときには列席していた。
だが、長慶死後の永禄8年(1566年)、秀治は居城の八上城を奪還し、戦国大名として独立した。
また、播磨国の別所長治を娘婿として同盟を結んでいる。

永禄10年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛してくると、信長の家臣となった。
天正2年(1575年)には信長が派遣してきた明智光秀の軍勢に加わって丹波で織田氏に反抗する豪族の討伐を担当したが、天正3年(1576年)1月に突如として叛旗を翻し、光秀の軍勢を攻撃して撃退した(黒井城の戦い)。

これに激怒した信長は、光秀に命じて再度の丹波侵攻を命じた。
これに秀治は八上城で籠城して対抗、光秀の攻撃を1年半にもわたって耐え抜いた。
しかしながら光秀の調略で味方であったはずの丹後国・但馬国における豪族が織田氏に寝返り、さらに長期の籠城戦で兵糧も尽きてしまい、天正7年(1579年)に光秀に降伏した。

その後、秀治は弟の秀尚と共に安土城に送られたが、信長の命令で6月2日に安土の浄巌院慈恩寺で磔に処された。
享年39。

なお、この日は奇しくも本能寺の変からちょうど3年前の出来事である。

辞世の句

よわりける 心の闇に 迷はねば いで物見せん 後の世にこそ

人物・逸話

朝廷を重んじる尊王心が強かったようで、正親町天皇に対して即位の礼の費用を献上し、さらに軍を率いて京都の警護を務めている。

圧倒的に兵力・物量・人材で劣る秀治が、信長に対して1年半以上も抵抗し続けることができた理由は、丹波の山間の地形を利用したゲリラ戦法に長けていたからである。
だが、このために信長の怒りは尋常ではなく、磔に処される結果となった。

秀治の降伏については諸説がある。
長期戦に苛立つ光秀が、生母(あるいは育ての母同然の叔母とも)を秀治に人質として差し出し、代わりに秀治・秀尚が降伏して開城するという条件で助命するということで籠城戦を終結させた。
しかし信長は秀治兄弟を許さずに処刑したため、激怒した城兵が光秀の生母を磔に処した。
そしてこれが本能寺の変への遠因になったとされるものである。
ただし、これは江戸時代に作られた話ともされる。
また一説に、長期戦に不満を持った城兵が、秀治兄弟を光秀に差し出して開城に持ち込んだともされる。

[English Translation]