洞院公定 (TOIN Kinsada)
洞院 公定(とういん きんさだ、暦応3年/延元5年1月26日 (旧暦)(1340年2月24日) - 応永6年6月15日 (旧暦)(1399年7月18日))は、南北朝時代 (日本)の公家。
父は内大臣洞院実夏。
母は持明院保藤の女花園院中納言典侍。
祖父は洞院公賢。
通称は後中園左大臣。
法名は元貞。
養子に洞院実信(正親町忠季の子)・洞院満季(洞院実信の子)がいた。
暦応3年11月21日叙爵。
以後累進して従一位左大臣に至る。
日記に『洞院公定日記』があり、応安7年(1374年)と永和 (日本)3年(1377年)の自筆断簡が残存する。
永和2年(1376年)頃、諸家の系図を集めて『尊卑分脈』(『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』)を編んだ。
また、日記の「洞院公定日記」については、当時の南北朝の動乱期の世情を鮮明に描いており、更に太平記の作者といわれる小島法師についても記されている。
官職位階履歴
1361年(正平 (日本)16年/康安元年)正三位。
1376年(天授 (日本)2年/永和 (日本)2年)権大納言。
1395年(応永2年)従一位、右大臣。
1396年(応永3年)左大臣。