津田信成 (TSUDA Nobunari)
津田 信成(つだ のぶなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名で山城国御牧藩主。
永禄5年(1562年)、津田盛月の次男として生まれる。
羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えて、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いや天正18年(1590年)の小田原征伐に参加する。
文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵では、肥前国名護屋城に在陣した。
西の丸御前備衆を務め、500人の兵を預けられた。
文禄2年(1593年)、兄の信任が千人斬りの犯人として逮捕されたため、津田家の家督を継ぐこととなる。
このとき、3万5000石から1万3000石に減封された。
文禄3年(1594年)からの伏見城築城にも参加する。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、本戦では西軍の戸田勝成と奮戦して武功を挙げた。
そのため戦後は所領を安堵され、御牧藩主となる。
ところが慶長12年(1607年)、美濃国清水藩主の稲葉通重と共に京都の祇園に赴いたとき、茶屋の女房をはじめとする美女78名に乱暴狼藉を働いた。
この経緯を徳川家康に咎められ、御牧藩は改易されてしまった。
一説には、関ヶ原の戦いで戸田勝成を討ったのは織田長孝の功績であったが、それを信成が横取りしたことを咎められたともいう。
正保2年(1645年)8月20日、下野国足利にて死去した。
享年84。
挟箱を考案した人物でもある。