浅野長政 (ASANO Nagamasa)
浅野 長政(あさの ながまさ)は安土桃山時代から江戸時代の大名である。
豊臣政権の五奉行の一人であり、初名は長吉(ながよし)。
「長政」は晩年の改名で、「長吉」を名乗っていた時期が長い。
通称は弥兵衛。
母の弟浅野長勝の養子となる、母は浅野長詮の娘。
子に浅野幸長、浅野長晟(ともに広島浅野氏)、浅野長重(赤穂浅野氏祖の浅野長直の父)、娘(杉原長房室)、娘(堀親良室)、娘(松平定綱室)。
官位:従五位下、弾正少弼。
生涯
尾張国春日井郡北野(現在の愛知県北名古屋市)に安井重継の子として生まれた。
織田信長の弓衆をしていた叔父の浅野長勝に男子がなかったため、長勝の娘のややの婿養子として浅野家に迎えられこれを相続した。
長勝の養女となっていたねね(のちの北政所、高台院)が木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)に嫁いだことから、長政は秀吉にもっとも近い姻戚として、信長の命で秀吉の与力となる。
1573年(天正元年)、近江浅井長政攻めをはじめに、1583年(天正11年)の賤ケ岳の戦い、信長の死後に秀吉が統一事業を継承すると朝鮮出兵などで武功を挙げ、またその卓越した行政手腕を買われて太閤検地を行い京都所司代を務めた。
その功により1593年(文禄2年)には甲斐国22万石を与えられた。
五大老の徳川家康とは親しい関係にあり、秀吉死後は同じ五奉行でありながら石田三成と犬猿の仲にあったとされる(これには近年になって疑問も提示されている。近年の研究)。
1599年(慶長4年)、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて、甲斐国に謹慎を命じられた。
1600年(慶長5年)秋の関ケ原の戦いでは家康の子の徳川秀忠にし、戦後は嫡男・幸長に家督を譲って隠居した。
家康は江戸に武家政権を成立させ、1606年(慶長11年)には、長政は幸長の所領とは別に、隠居料として常陸真壁に5万石を支給された。
1611年(慶長16年)、真壁陣屋にて死去。
享年65。
なお真壁5万石は三男長重が継ぎ、その子長直が赤穂へ移って、この家系から元禄赤穂事件で有名な浅野長矩が出ている。
法名:傳正院殿前霜台功山道忠大居士。
墓所:茨城県桜川市桜井の天目山伝正寺。
また、和歌山県高野町の高野山悉地院。
近年の研究
石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康派から分離させようとした家康の陰謀、挑発であるという説を提唱している。
長政の嫡子幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。
長政が関ヶ原の後における大坂城(江戸城説も)の猥雑な雰囲気を「三成が存命の頃はこのようなことはなかった」と嘆いたとの逸話が残っている。