浦上村宗 (URAGAMI Muramune)
浦上 村宗(うらがみ むらむね、生年不詳 - 享禄4年(1531年)6月)は備前国・美作国・播磨国の戦国大名。
浦上宗助の子(則宗の実子とする家系図も)。
弟に浦上宗久。
子に浦上政宗、浦上宗景。
掃部助。
浦上氏の略歴
浦上氏は紀長谷雄の子孫(紀貫之の子孫との説もある)で、播磨国揖保郡浦上郷(浦上庄)が苗字の地である。
鎌倉時代末期、ここ播磨から赤松則村(円心)が史上に現れると、浦上氏もその麾下として活動した。
鎌倉幕府の倒幕にも参加している。
その後の南北朝時代 (日本)には、後醍醐天皇を中心とした建武の新政を見限り、早くから足利尊氏に従ったことから室町時代に赤松氏は大きく繁栄した。
そのなかで浦上氏からも史上に登場する人物が現れた。
それは『太平記』に名が見える浦上七郎兵衛行景、同五郎左衛門景嗣らである。
しかし室町幕府のもとで飛躍的に勢力を拡大した赤松氏も、足利義教の行った恐怖政治と惣領制への干渉を受け、やがて嘉吉の乱を起こした。
これは圧迫に耐えかねた赤松満祐が自邸で将軍義教の暗殺を行うと言う形で起こされたもので、その後京を引き上げた満祐は播磨で抗戦の構えをみせた。
しかし、幕府が動員した守護連合軍に敗れ赤松氏はその勢力を失った。
しかし、浦上氏ら赤松氏の遺臣たちは満祐の弟赤松義雅の孫赤松政則をもりたてて、主家再興を企画し成功させる。
その主家再興に活躍した名臣浦上則宗の元で赤松氏と浦上氏は勢力を大きく伸ばした。
赤松氏は応仁の乱では東軍(主将細川勝元)に加わった。
則宗は勢力基盤である播磨周囲の伯耆国・因幡国などの西軍山名氏の領国で、さらには洛中で赤松軍を率いる主将として活躍した。
そのため応仁の乱の後、赤松政則が侍所の所司に任ぜられると、則宗が侍所室町幕府となり実務を司った。
浦上氏は全盛期を迎えようとしていた。
経歴
則宗の養嗣子である浦上祐宗の跡を継いで浦上氏の当主になったと見られるものの、肝心の家督相続の経緯、時期については永正年間前半の祐宗、村宗の動向を示す史料が少ない為、はっきりしない。
そもそも、浦上家中における村宗の立場についても判明していない。
則宗、浦上則景、祐宗らの養子として系図を繋げる文献もあるが、証拠と裏付けられるだけの史料は無い。
それに元々浦上氏の嫡流であった浦上則永の孫に当たるので則宗の子、養子が悉く死んだ後ならば誰の養子にならずとも相続の順が回って来たとしても不思議ではない為、これらの系図の信憑性には疑問が残る。
主家との暗闘
主家では赤松政則の死後、その養子である赤松義村が幼年であったこともあり、政則後室である洞松院の後見や、浦上氏などの支持を受ける形で、播磨・備前国・美作国の守護職に就いた。
その後、義村は成長するにつれ、大きく勢力を伸張させた守護代 浦上氏に惧れを抱き、また自立の機会を窺っていた。
永正14年(1517年)、この頃よりようやく政務に参加するようになった義村は、2人の宿老(浦上村宗、小寺則職)と義村の3人の側近(櫛橋則高・志水清実・衣笠朝親)から構成される新体制を布く。
しかし、この新体制は 「宿老の専横抑制と義村自身の発言力の強化」 を狙う意図が見え透いていたため、村宗は義村に反発した。
さらにもう一人の宿老である則職とも対立してしまう。
これにより則職や3人の宿老による讒言で立場を悪くした上に、これを重んじた義村によって、出仕差し止めという仕置きを下されてしまった。
武力闘争に発展
このように、あからさまな赤松氏の権力機構からの排斥行為に怒った村宗は、宇喜多能家などの家臣らと共に備前へと帰り、三石城に籠もって赤松氏への反旗を翻した。
永正16年(1519年)冬。
この謀反を、自身の更なる権力強化の好機ととらえて討伐軍を動員した義村によって、三石城を取り囲まれた。
しかし、村宗も赤松氏と敵対関係にあった備前の最大国人 松田元陸と密かに結ぶなど対策を講じていた。
結局、要害の地に築かれた三石城の堅い守りを攻めあぐねた義村は、後詰めに元陸が現れるとの報にやむなく兵を退く。
しかし翌年の永正17年(1520年)にも再度、討伐軍(義村自身の出征ではなく、小寺城主 小寺則職を主将)が動員される。
この時の征伐軍は浦上氏の本拠への攻撃よりも、浦上派へ転身した美作国守護代の中村則久など浦上派の諸城への攻撃で、弱体化を図っている。
浦上勢を圧倒する討伐軍は、義村の目的を達成するかに思えた。
しかし、浦上の子飼いである能家らの頑強な抵抗に遭い、征伐に手間取る。
やがて、調略の手を伸ばすなど討伐軍への揺さぶりをかけた守勢の村宗によって、小寺則職率いる討伐軍は撃退されてしまう。
その結果、義村の勢力は大きく損なわれ、逆に村宗は播磨に攻め入った。
これで優勢となった村宗は義村に迫ると、同年11月には義村から嫡子 才松丸を引き渡させた上に、強制隠居に追い込んだ。
その後、当時8歳の才松丸を改め赤松晴政に赤松氏の家督を継がせると、村宗は自らこの後見人となった。
翌永正18年(1521年)の正月、足利義晴を奉じて義村がまたも兵を挙げるがこれを破った。
義晴の確保を目論む村宗は義村に嘘の和睦を持ちかけ、これに応じた義村を和解の席で捕縛した。
捕らえた義村を播磨の室津に幽閉し、元号が大永に変わった同年9月には刺客に義村を暗殺させた。
その頃、義晴は細川高国に預けられて上洛を果たし、征夷大将軍となっている。
これにより名目的にも実質的にも、播磨・備前・美作の支配権を得て戦国大名への道を歩み始めた。
ただし浦上氏の赤松氏に対する下克上は、他家のそれと比較すると比較的穏和なものであり、但馬国の山名誠豊が播磨へ侵攻してきた際は、赤松氏と共闘してもいる。
山名氏の脅威が去った後は、赤松氏との覇権を巡る争いを再開し、浦上村国など一族の有力者と争いつつ、政村を置塩城より追放し、美作国へ追いやったこともある。
野心の果てに
力をつけた村宗は、細川晴元と対立し京を追われた管領 細川高国の依頼を受け、主君 政村と一時和睦した上で上洛の軍を起こし、細川氏の家督争いへ介入するようになる。
当初は、晴元派の重鎮である柳本賢治や東播磨で村宗と対立してきた別所就治を破るなど破竹の勢いで進撃した。
享禄4年(1531年)6月、中嶋の戦い・大物崩れで晴元や三好元長に敗北しただけでなく、討死してしまう。
なお、この勝敗の帰趨を決したのは、後詰めであったはずの政祐(政村)が、晴元・元長らと対峙する高国・浦上軍を背後から攻撃したことであった。
政祐のこの行動は、父の無念を晴らし、かつ守護としての実権を取り戻すためと説明されることが多い。
村宗の死後、家督は嫡男 虎満丸(後の政宗)に継がれた。