清水卯三郎 (SHIMIZU Usaburo)
清水卯三郎(しみず うさぶろう、文政12年(1829年) - 明治43年(1910年)1月20日)は、武蔵国埼玉郡羽生村(現在の羽生市)出身の実業家。
母は根岸友山の妹。
略歴
酒造業を営む清水家の三男として生まれる。
芳川波山に漢学を学んだ後、箕作阮甫に蘭学を学んだ。
1854年(嘉永7年)には筒井政憲の供人として下田でロシア全権のエフィム・プチャーチンに会いロシア語を学んだ。
1849年(嘉永2年)に江戸に出て大豆等を扱う商人となった。
1859年に横浜市、1868年に浅草に出店し、1869年(明治2年)には日本橋 (東京都中央区)に「瑞穂屋商店」を開設した。
また外交面でも活躍し、1863年(文久3年)の薩英戦争の際には幕府側通訳として和平に尽力。
イギリスに拘束されていた薩摩藩の五代友厚、寺島宗則を保護し、実家や親戚宅で匿っていたといわれる。
この活躍が認められ、1867年(慶応3年)に渋沢栄一らと共に幕命でフランスのパリ万国博覧会 (1867年)に随行、学問、工芸を学び、アメリカを経由して帰国した。
帰国後には洋書を皮切りに輸入商として活躍、その傍ら印刷を輸入して出版業を始め「六合新聞(りくごうしんぶん)」を出版し海外事情を紹介した。
また仮名 (文字)論者としても知られ、明六社の機関誌明六雑誌に、ひらがなの普及が国民全体の知識や教養の向上に役立つと主張した。
この考えに賛同した学者達と「かなのとも」という会を発足させ、機関誌『かなのみちびき』を発行し、仮名文字論を展開した。
また1874年(明治7年)には英国の科学の本を翻訳した「ものわりのはしご」を出版、晩年に半生記「わがよのき」を書き残したが、これらは全て仮名文字で記されている。
1910年1月20日に死去、享年82。
羽生市北の正光寺にある清水卯三郎の墓には「志みづうさぶらうのはか」と記されている。