源光保 (MINAMOTO no Mitsuyasu)
源 光保(みなもと の みつやす、生年未詳 - 永暦元年(1160年))は、平安時代末期の武将。
摂津源氏の流れを汲む出羽国守源光国の三男。
母は大中臣輔清の女。
兄弟に源光信、源全らがあり、子に源光宗、土佐局、源重子(坊門局)らがある。
官位は正四位下、検非違使、兵衛府、衛門府、出雲国。
諱は光泰とも記される。
大治 (日本)5年(1130年)、闘乱事件の罪により兄源光信の土佐国配流が決定すると、光保もこれに連座して兵衛府の任を解かれたが間もなく還任される。
その後、兄に代わり鳥羽天皇の北面武士を務めるが、娘(土佐局)が法皇の寵妃となったことを契機としてその近臣となる。
仁平元年(1151年)の院殿上人を皮切りに、久寿元年(1154年)には従四位下出雲国となる。
さらに保元元年(1156年)には正四位下に叙されるなど異例の早さで昇進した(『兵範記』)。
そして、美福門院に近かったことから、その猶子となっていた守仁親王(後の二条天皇)の側近となり、保元の乱に当たっては甥の源光基(土岐氏の祖)と共に後白河天皇方に参加して勝利する。
乱の後、即位した二条天皇の親政派と退位した後白河天皇の院政派が対立を生じると、光保はかねてからの関係により終始前者の側に立って行動する。
その流れの中で平治元年(1159年)に勃発した平治の乱にあたっては、嫡男源光宗や甥の源光基らを率いて藤原信頼、源義朝方に参加。
第一の攻撃目標に掲げられていた信西を追跡し、山城国において発見・殺害するという大功を挙げた。
しかし同じ親政派の藤原惟方や藤原経宗の裏切りにより二条天皇が内裏から脱出する。
信頼方に味方する理由を失った光保一党は動揺初め陽明門の守備に付くが、最終的には寝返って平清盛方に加勢した。
このため乱の直後は処罰を免れるが、二条親政派の排除を意図した後白河によって、引き続きその立場を狙われることとなる。
永暦元年(1160年)6月、後白河の命を狙ったという罪状でついに光宗とともに逮捕され、薩摩国に配流となった。
さらに間髪を置かず、同国川尻(鹿児島県指宿市)において誅殺された。