源定 (MINAMOTO no Sadamu)

源 定(みなもと の さだむ、弘仁5年(816年) - 貞観_(日本)5年1月3日 (旧暦)(863年1月25日))は平安時代前期の公卿。
父は嵯峨天皇、母は内侍司百済王慶命。
淳和天皇の猶子になったが、父嵯峨天皇からも特に寵愛された。
四条大納言または賀陽院大納言(陽院大納言とも)とも呼ばれた。
子に源包・源宥・源至・源精・源唱らがいた。

天長5年(828年)、源朝臣の姓を賜った(嵯峨第六源氏と呼ばれた)。
その後、同9年(832年)には従三位に直叙されるという、特別な待遇がなされた。
翌年の天長10年(833年)に参議になり、治部卿・中務卿を歴任した。
承和 (日本)7年(840年)に淳和上皇の服喪のため、同9年(842年)に嵯峨上皇の服喪のため、それぞれ官を辞した。
その後復官して嘉祥2年(849年)中納言になり、貞観元年(859年)には大納言に昇った。
しかし「深宮の内に養長して未だ嘗て世俗の艱難を知らず」と評され、性格は温雅で音楽を愛好し、座右に鼓鐘を置いて、退庁の後は自ら弾じて楽しんだという。
貞観5年正月3日、正三位大納言兼右大将で薨去。
没後従二位を追贈された。

彼は彼の兄たち(源信 (公卿)、源弘、源常)同様嵯峨源氏と称される。

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