源斉頼 (MINAMOTO no Masayori)
源 斉頼(みなもと の まさより、生没年未詳)は、平安時代中期の武将。
清和源氏源満政流。
駿河国守源忠隆の長男。
母は備前国守藤原景斉女。
弟に忠清、重隆、義経らがあり、子に良行、源惟家、高仲、忠清、隆祐、源頼政室らがある。
官位は従五位下、蔵人、右兵衛尉、左衛門尉、検非違使、出羽国守、出雲国守。
諱は政頼、正頼とも記され「せいらい」とも呼称される。
蔵人兼右兵衛尉在任時であった天喜3年(1055年)、内裏の蔵人所町屋(蔵人の詰所)に逃げ込んだ抜刀の暴漢を郎等と共に取り押さえた功により検非違使に任ぜられる(『百錬抄』)。
同5年(1057年)、前九年の役で苦戦する源頼義の後援として源兼長に代わり出羽守に任じられ下向した(『扶桑略記』)。
しかし出羽赴任後の斉頼は頼義に対して非協力的な態度を示したとされ、その戦功も役の終盤に安倍頼時の弟・安倍良照を捕縛する程度のものに留まっている。
斉頼は優れた鷹飼いであったことが知られ、朝鮮から渡来した鷹匠・兼光(名には異説あり)より継承したとされるその秘技は「呉竹流」あるいは「政頼流」などと呼ばれ、後の諏訪流とその諸派に継承された。
また、鎌倉時代初期に編纂された説話集『古事談』には鷹飼いとしての斉頼を題材にした話が載せられている。
没年は不明であるが、現在の滋賀県高島市マキノ町に存在する「斉頼塚古墳」は斉頼の墳墓と伝えられる。
後代、三男惟家の子孫が近江国高島郡に土着して善積氏を称したほか、一女(正確には孫娘)は摂津源氏の源頼政の室となり、源仲綱や二条院讃岐などの母となった。