源義清 (矢田判官代) (MINAMOTO no Yoshikiyo (Yada no Hangandai))

源 義清(みなもと の よしきよ)は平安時代末期の武将。
足利氏の祖である源義康の庶長子。
通称を矢田判官代といい、足利義清、矢田義清とも記される。
細川氏、仁木氏の祖。

生涯

同母弟は足利義長、異母弟に足利義兼・足利義房。
長男であったが妾腹のために、本拠の足利庄を嫡出である異母弟の義兼に譲って、自らは平安京において統子内親王に仕える。
治承4年(1180年)の以仁王の挙兵に際しては源頼政と行動をともにし、頼政が敗死した後は源義仲の麾下に走る。
寿永2年(1183年)の平家都落ちの際、源行家や多田行綱と共に京都を包囲し、丹波路から大江山に布陣して都の西方から平家を追いつめ、7月に義仲軍と共に入京した。

同年10月、西海にあった平氏を追討するべく、義仲の代官(総大将)として海野幸広とともに一軍を率いて京を出発。
同年11月17日、備中国水島(現在の岡山県倉敷市玉島付近)において、本隊の平知盛・平重衡と、搦手の平通盛・平教経ら率いる平氏軍と激突した。

総大将の義清は船戦に慣れた平氏軍を前に大敗を喫し、海野幸広や同母弟の義長らとともに矢の雨に浴びせられて、壮絶な戦死を遂げた(水島の戦い)。

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