源雅定 (MINAMOTO no Masasada)

源 雅定(みなもと の まささだ、嘉保元年(1094年) - 応保2年5月27日 (旧暦)(1162年7月11日))は平安後期の公卿、歌人。
源雅実の次男。
正二位・右大臣。
中院入道右大臣と号す。

経歴

長治2年、右少将(12歳)、同3年、従五位上、兼周防介、嘉祥2年、正五位下、天仁2年、従四位下、従四位上、天永2年、兼美作権介、正四位下、永久3年、右中将、同4年、兼備中介、元永2年、参議(26歳)、同3年、兼美作権守、保安2年、従三位、同3年、中納言、大治4年、正三位、同5年、兼右衛門督、同6年、検非違使別当、中納言、天承2年、左衛門督、長承3年、従二位、保延2年、正二位、大納言、同6年、左大将、永治元年、兼皇后宮大夫、久安5年、内大臣(58歳)、同6年、右大臣、仁平4年5月28日出家。

しかし久寿2年7月23日、近衛天皇崩御の際に後継を定める王者議定には出席している。

人物

素直でよく気が付き、堅苦しい所もなく魅力的な性格であった。
また、学才もあり、朝廷の儀式にも通じていたとされる。

幼時より雅楽に長じ、康和3年(1101年)3月9日の白河天皇五十歳の賀の試楽における童舞で、9歳にして『胡飲酒』を舞い、賞賛された。
父雅実は雅定の舞の技能に自信を持っていたためか、嘉承元年(1106年)に開催された石清水八幡宮臨時祭における一の舞に雅定が選ばれなかったことに腹を立て、雅実が祭りの途中で帰京してしまったとの逸話がある。
また、『胡飲酒』を伝える楽家の多資忠が山村政連に殺害された際、『胡飲酒』を伝受していた雅実が多忠方(資忠の子)に伝えた逸話があるが、雅実が死去してからは、多忠方は雅定を師としていたとされる。

豊原時元から伝授を受けた笙にも秀で、嘉応2年(1170年)迄に開催された御遊において、各種記録に記された笙の演奏回数が、2位の藤原宗忠を大きく引き離して最多となっている。

また、歌人としては藤原顕輔・源俊頼らと交渉があり『金葉和歌集』以下の勅撰和歌集に入集している。

大鏡の増補を行った「皇后宮大夫」について

古くから『大鏡』の増補を行った「皇后宮大夫」を雅定に比定する説がありこれが通説とされている。
だが、これは不明とされている同書の本編作者が増補作者の一族とされる推測から本編作者を村上源氏に求める論者から広い支持があるからである。
これに対して藤原氏に求める研究家からは同じ「皇后宮大夫」経験者である藤原家忠説などの異論も出されている。

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