瀬川如皐 (3代目) (Joko SEGAWA (the third))
三代目 瀬川如皐(さんだいめ せがわ じょこう、文化 (元号)3年(1806年) - 明治14年(1881年)6月28日)は幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎作者。
本名は六三郎(ろくさぶろう)。
俳名に吐蚊、雅号に二五社・藪雀庵がある。
江戸の生まれ。
はじめ呉服屋を営んでいたが、天保10年 (1839) 絞吉平の名で河原崎座に入り、歌舞伎狂言の創作活動を始める。
のち絞吉兵衛。
姥尉輔の名で鶴屋南北 (5代目)に師事する。
その後中村歌右衛門 (4代目)の後援を受け活動が活発となる。
弘化2年 (1845) 藤本吉兵衛、一時澤村吉兵衛とも名乗る。
嘉永元年 (1848) 11月中村座の立作者となり、嘉永3年 (1850) 三代目瀬川如皐を襲名。
以後主に市川團十郎 (8代目)や市川小團次 (4代目)のために台本を書く。
几帳面な性格で、台本も趣向に富み、創作性には優れていた。
ただし書き直しが多く、そのうえ台本の字が小さく、指示も細か過ぎるうえ、作品自体も冗長で、役者や観客からはすこぶる不評だった。
代表作は『与話情浮名横櫛』(切られ与三)、『東山桜荘子』(佐倉義民伝)、『新台いろは書始』(のちに改作されて『松浦の太鼓』)など。
とくに『切られ与三』では七五調の台詞を黙阿弥に先駆けて使用して幕末期の世話狂言の基本を築き、『佐倉義民伝』では日本最初の農民劇を創作するなどの功績をあげている。
また、『乗合舟』『競獅子』などの舞踊の作詞、合巻の著作などがある。
晩年は黙阿弥の人気に押され狂言作者として大成せぬまま終わったが、鶴屋南北 (4代目)と黙阿弥の間の時代を埋める存在として評価されている。
墓所は向島弘福寺。
瀬川如皐 (4代目)は親戚に当たる。