狩野尚信 (KANO Naonobu)
狩野 尚信(かのう なおのぶ、慶長12年10月6日 (旧暦)(1607年11月25日) - 慶安3年4月7日 (旧暦)(1650年5月7日))は江戸時代初期の狩野派の絵師。
狩野孝信の次男で狩野探幽の弟にあたり、子に狩野常信がいる。
通称は主馬、自適斎と号した。
兄探幽に続き、寛永7年(1630年)江戸に召され竹川町に屋敷を拝領し、幕府の御用絵師となる。
探幽の画風を素早く習得し、二条城、聖衆来迎寺、知恩院障壁画の制作では兄と共に参加し、その画業を補佐した。
その後、探幽の画風から一歩踏み出し、探幽以上に湿潤な墨調をもった。
余白や構図にも探幽を超える大胆さをもつ作品が残っている。
大和絵の白描技法を水墨画の人物描写に応用し、漢画の和様化に寄与した。
近衛家熙は『槐記』のなかで、古今に超絶したものだと高く評価している。
一方、金碧障壁画の着色作品は、対象を単純化し要とする傾向が見られ、探幽が金碧画の中にも和様化を目指したのに対し、尚信は装飾化へ向かおうとしたようだ。
私生活においては、ふらりと京都に旅行に出て小堀遠州を訪ねた。
実際は病死したと伝えられるが、失踪して中国に行こうとした。
あるいは魚釣りに出かけて溺死したという逸話が作られるなど。
飄々と生きた趣味の自由人といった人柄を伝えている。
代表作
大原御幸・富士見西行図屏風(板橋区立美術館)
(静岡県立美術館)六曲一双
山水花鳥図(根津美術館)六曲一双
武州州学十二景図巻(江戸東京博物館)