甘露寺親長 (KANROJI Chikanaga)

甘露寺 親長(かんろじ ちかなが、応永31年(1425年) - 明応9年8月17日 (旧暦)(1500年8月31日))は、室町時代中期から戦国時代 (日本)にかけての公家である。
実務家公卿を輩出した藤原北家勧修寺流甘露寺家の当主。
出家後は蓮空。
一字名は鬼。
甥に三条西実隆。
娘婿に中御門宣胤。

応永31年(1425年)頭弁(蔵人頭左大弁)甘露寺房長の子として生まれる(応永32年説もあり)。
嘉吉元年(1441年)昇殿、従五位下に叙される。
嘉吉3年(1443年)、南朝 (日本)の遺臣が内裏の中に侵入し、三種の神器を奪おうとした事件(禁闕の変)が起きた際、自ら太刀を振るって後花園天皇を守護した逸話が知られる。

文安元年(1444年)右少弁、同3年(1446年)蔵人・権右中弁となり正五位上。
その後も累進し従三位権中納言となる。
康正2年(1456年)正三位に進み、陸奥国出羽国按察使に任ぜられ、以後明応2年(1493年)まで同職にとどまったため按察使中納言の名で呼ばれた。
また長年賀茂伝奏も務める。

応仁の乱による戦火で自邸が焼失したため、文明 (日本)2年(1470年)に勧修寺・鞍馬寺等へ避難するが、それらも焼け出され、家蔵の文書・日記類も焼失した(甘露寺家を嫡流とする勧修寺流は実務の家柄であり、必要上から記録を克明につけており「日記の家」とも称された)。
同年9月には帰京し、再出仕。
すでに前年には官位は正二位に昇っていたが、官職は寛正6年(1465年)に権中納言を辞して以来、就任を固辞している。
有職故実に通じていたことから、多くの公卿から指導を依頼され、たびたび官に推挙されたが、「高官無益なり」とかたくなに断ったという。
文明9年(1477年)には後土御門天皇の命によって洞院公賢の年代記『皇代暦』を増補して天皇に献上している。

明応元年(1492年)嫡子甘露寺元長ら周囲の強い薦めにより権大納言への就任を受けたが、翌年、明応の政変に憤慨した後土御門天皇が退位を決意するとこれを諌め、その直後にすべての官を辞して出家。
法名・蓮空を名乗る。
明応9年(1500年)、美濃国で没す。
享年77。
子は元長の他に万里小路春房がいる。

日記として『親長卿記』があり、同時代の貴重な史料となっている。
またそれまでの諸記録の写本も多く残し、特に吉田経房の日記『吉記』や洞院公賢の日記『園太暦』の現存する写本の大部分は、親長の手によるものである。

官職位階履歴
1441年(嘉吉元年) 従五位下
1444年(文安元年) 右少弁
1446年(文安3年) 蔵人、権右中弁、正五位上
1448年(文安5年) 従四位下、従四位上
1450年(宝徳2年) 権左中弁、左中弁、蔵人頭、正四位下
1451年(宝徳3年) 正四位上
1452年(享徳元年) 右大弁、参議、従三位
1453年(享徳2年) 権中納言
1456年(康正2年) 正三位、陸奥国出羽国按察使
1465年(寛正6年) 従二位、権中納言を辞す
1469年(文明元年) 正二位
1492年(明応元年) 権大納言
1493年(明応2年) 権大納言、按察使を辞す。
出家

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